な淋しさである。私は口笛を吹きながら遠く走る島の港を見かえっていた。岸に立っている二人の黒点が見えなくなると、静かなドックの上には、ガアン、ガアンと鉄を打つ音がひびいていた。尾道についたら半分高松へ送ってやりましょう。東京へかえったら、氷屋もいいな、せめて暑い日盛りを、ウロウロと商売をさがして歩かないように、この暮は楽に暮したいものだ。私は体を延ばして走る船の上から波に手をひたしていた。手を押しやるようにして波が白くはじけている。五本の指に藻《も》がもつれた糸のようにからまって来る。
「こんどのストライキは、えれえ短かかったなあ――」
「ほんまに、どっちも不景気だけんな。」
船員達が、ガラス窓を拭きながら話している。私はもう一度ふりかえって、青い海の向うの島を眺めていた。
*
(四月×日)
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――その夜
カフエーの卓子《テーブル》の上に
盛花のような顔が泣いた
何のその
樹の上にカラスが鳴こうとて
――夜は辛い
両手に盛られた
わたしの顔は
みどり色の白粉《おしろい》に疲れ
十二時の針をひっぱっていた。
[#ここで字下げ終わり]
横浜に来て五日あまりになる。カフエー・エトランゼの黒い卓子の上に、私はこんな詩を書いてみた。「俺くらいだよ、お前と一緒にいるのは……誰がお前のような荒《すさ》んでボロボロに崩れるような女を愛すものか。」
あの東京の下宿で、男は私に思い知れ、思い知れと云う風な事を云うのです。泊るところも、たよる男も、御飯を食べるところもないとしたら、……私は小さな風呂敷包みをこしらえながら、どこにも行き場のない気持ちであった。そう云って別れてしまった男なのに、「お前が便利なように云ってやったんだよ、俺から離れいいようにね。」男は私を抱き伏せると、お前も俺と同じような病気にしてやるのだ。そう云って、肺の息をフウフウ私の顔に吐きかけてくる。あの夜以来、私は男の下宿代をかせぐために、こんなところへまで流れて来たのです。
「国へかえってみましょう、少し位は出来るかも知れませんから……」
こんなことをして金をこしらえる事を私は貞女だとでも思っているのでしょうか神様!
「もう店をしまって下さい。」
マダム・ロアの鼻の頭が油で光っている。ここは十二時にはカンバンにするのであるらしい。桃割れに結ったお菊さんと、お君さんと私、バラックの女給部屋には、重い潮風が窓から吹きこんでくる。
「ね、東京にかえりたくなったわ。」
お君さんは子供の事を思い出したのか、手拭で顔をふきながら、大きい束髪に風を入れていた。――ここのマダム・ロアは、独逸《ドイツ》人で、御亭主は東京に独逸ビールのオフィスを持っている人だった。何時《いつ》も土曜日には帰って来るのだそうである。一度チラとやせた背の高い姿を見たきり。マダム・ロアは、古風なスカートのように肥って沈黙った女だった。私はお君さんの御亭主の紹介で来たものの、ここはあまり収入もないのだ。コックも日本人なので、外人客は料理は食べないで、いつもビールばかり呑んで行った。
「私、あんたんとこの人に紹介されて来たので、本当は東京へ帰りたいんだけれど、遠慮をしていたのよ。」
「浜へ行ったら金になるなんて云って、結局はあの女と一緒になりたかったからでしょうよ。」
お君さんの御亭主は、お君さんと親子ほども年が違っているのに妾《めかけ》を持っていた。
「実際、私達は男の為めに苦労して生きてるようなものなのね。」
お君さんは波止場の青い灯を見ながら、着物もぬがないでぼんやり部屋に立っている。私はふっと、去年のいまごろ、寒い日にお君さんと、この浜へ来た事を思い出した。あれから半年あまり、もうお君さんとは会えないと思いながら、どっちからともなく尋ねあって行き来している事を思うと、ほほ笑ましくなって来る。――十三の時に子供を産んだと云うお君さんは、「私はまだほんとうの恋なんてした事がないのよ。」と云うなり。いまは二十二で、九つの子供のあるお君さんは、子供が恋人だとも言っていた。ふしあわせなお君さんである。養母の男であったのが、今の御亭主になって十年もお君さんはその男の為めに働いて来たのだと云う。十年も働きあげたと思うと、カフエーの女給を妾に引き入れてみたり、家の中は一人の男をめぐって、彼女に妾に養母さんと云った不思議な生活だった。彼女は、「私、本当に目をおおいたくなる時があってよ。」と涙ぐむ時がある。どんなにされても、一人の子供の為めに働いているお君さんの事を考えると、私の苦しみなんて、彼女から言えばコッケイな話かも知れない。
「電気を消して下さい!」
独逸人はしまり屋だと云うけれど、マダム・ロアが水色の夜の着物を着て私達の部屋を覗きにくるのだ。電気の消えたせまい部
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