屋の中で、私はまるでお伽話のような蛙《かえる》の声を聞いた。東京の生活の事、お母さんの事、これからさきの事、なかなか眠れない。
(四月×日)
九つになるお君さんの上の子供が一人でお君さんをたずねて来た。港では船がはいって来たのか、自動車がしっきりなしに店の前を走って行く。
朝。
マダム・ロアは裏のペンキのはげたポーチで編物をしていた。「お菊さんに店をたのんで一寸波止場へ行ってみない? 子供に見せたいのよ。」冷たいスープを呑んでいる私の傍で、お君さんは長い針を動かせて、子供の肩上げをたくし上げては縫ってやっていた。
「お君さんの弟かい!」
船乗り上りの年をとったコックが、煙草を吸いながら、子供をみていた。
「ええ私の子供なのよ……」
「ホー、いくつだい? よく一人で来られたね。」
「…………」
歯の皓《しろ》い少年は、沈黙って侘し気に笑っていた。私たち三人は手をつなぎあって波止場の山下公園の方へ行ってみる。赤い吃水線《きっすいせん》の見える船が、沖にいくつも碇泊《ていはく》していた。インド人が二人、呆《ぼ》んやり沖を見ている。蒼《あお》い四月の海は、西瓜《すいか》のような青い粉をふいて光っていた。
「ホラ! お船だよ、よく見ておおき、あれで外国へ行くんだよ。あれは起重機ね、荷物が空へ上って行ったろう。」
お君さんの説明をきいて、板チョコを頬ばりながら、子供はかすんだような嬉しい眼をして海を見ている。桟橋から下を見ると深い水の色がきれいで、ずるずると足を引っぱられそうだった。波止場には煙草屋だの、両替店、待合所、なんかが並んでいる。
「母さん、僕、水のみたい。」
ひざ小僧を出したお君さんの子供が、白い待合所の水道の方へ走って行くと、お君さんは袂《たもと》からハンカチを出して子供のそばへ歩いて行く。
「さあ、これでお顔をおふきなさい。」
ああ何と云う美しい風景だろう、その美しい母子風景が、思い思いな苦しみに打ちのめされてはきりっと立ちあがっては前進してゆくのだ。少年が母をたずねて、この浜辺までひとりで辿《たど》って来た情熱を考えると、泣き出したいだろうお君さんの気持ちが胸に響くなり。
「あの子と一緒に間借りでもしようかとも思うのよ、でも折角、父親がいて離すのもいけないと思って我慢はしてるのだけれど、私、働き死にをしに生れて来たようで、厭《いや》になる時があるわよ。」
「ね、小母さん! ホテルって何?」
フッと見ると波止場のそばの橋の横に、何時か見たホテルと云う白い文字が見えた。
「旅をする人が泊るところよ。」
「そう……」
「ね、坊や! 皆うちにまだいるの?」
「うん、お父さん家にいるよ、お婆ちゃんも、小母ちゃんも銀座の方にこの頃通って、とても夜おそいの、だから僕だの父ちゃんが、かわりばんこに駅へむかいに行くんだよ……」
お君さんはおこったように沈黙って海の方を見ていた。
昼は伊勢佐木町に出て、三人で支那|蕎麦《そば》を食べた。
「ね、あんた、私、写真を取りたいのよ、一緒に写ってくれない。」
「私もそう思ってたの、いつまた離ればなれになるかも判らないんですもの、丁度いいわ、坊やも一緒に取りましょう。」
支那の軍人の制服のような感じの電車に乗って、浜近い写真館に行った。
「三人で取ると、誰かが死ぬんだって、だから犬ころでもいいから借りましょうよ。」
お君さんが、不恰好なはり子の犬をひざに抱いて、坊やと私とが立っている姿を撮ってもらう。バックは、波止場の桟橋、林立した古風な帆柱が見えます。
「坊や! 今日は母ちゃんとこへ寝んねしていらっしゃいね。」
「一緒に帰るの……」
お君さんは淋しそうに、一人でスヴニールのレコードをかけていた。マダム・ロアは今日は東京へ外出していない。椅子を二つ並べてコックはぐうぐう眠っている。もらい一円たらず、私も坊や達と東京へ帰ろうと思う。
(四月×日)
「こんな旅が一生続いたらユカイよ。」
エトランゼの裏口から、一ツずつ大きい荷物を持った私たち二人の女を、マダム・ロアは気の毒そうにみて、一週間あまりしかいない私達へ給料を十円ずつ封筒へ入れてくれた。
「また来て下さい、夏はいいんですよ。」
お君さんと違って家のない私は、又ここへ逆もどりしたいなつかしい気持ちで、マダム・ロアを振り返った。沈黙った女ってしっかりしているものだ。背広を着た彼女が、二階から私達を何時までも見送ってくれていた。
「よかったら家へいらっしゃいよ。雑居だけどいいじゃないの……そしてゆっくりさがせば。」
駅でバナナをむきながら、お君さんがこう言ってくれた。東京へ行ったところで、ひねくれたあの男は、私を又殴ったり叩いたりするのかも知れない。いっそお君さんの家にでもやっかいになりましょう。サンドウイッチを
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