は――昨日も今日も変りのない平凡な雲の流れだ
そこで頭のもげそうな狂人になった職工達は
波に呼びかけ海に吠え
ドックの破船の中に渦をまいて雪崩《なだ》れていった。
潮鳴の音を聞いたか!
遠い波の叫喚を聞いたか!
旗を振れッ!
うんと空高く旗を振れッ
元気な若者達が
光った肌をさらして
カララ カララ カララ
破れた赤い帆の帆綱を力いっぱい引きしぼると
海水止の堰《せき》を喰い破って
帆船は風の唸る海へ出て行った
それ旗を振れッ
勇ましく歌を唄えッ
朽ちてはいるが元気に風を孕《はら》んだ帆船は
白いしぶきを蹴って海へ出てゆく
寒冷な風の吹く荒神山の上で呼んでいる
波のように元気な叫喚に耳をそばだてよ!
可哀想な女房や子供達が
あんなにも背伸びをして
空高く呼んでいるではないか!
遠い潮鳴の音を聞いたか!
波の怒号するのを聞いたか
山の上の枯木の下に
枯木と一緒に双手《もろて》を振っている女房子供の目の底には
火の粉のように海を走って行く
勇ましい帆船がいつまでも眼に写っていたよ。
[#ここで字下げ終わり]
宿へ帰ったら、蒼《あお》ざめた男の顔が、ぼんやり煙草を吸って待っていた。
「宿の小母さんが迎いに来て、ビックリしちゃった。」
「…………」
私は子供のように涙が溢《あふ》れた。何の涙でもない。白々とした考えのない涙が、あとからあとからあふれて、沈黙《だま》ってしきいの所に立って長いこと泣いていた。
「ここへ来るまでは、すがれたらすがってみようと思って来たけれど、宿の小母さんの話では、奥さんも子供もあるって聞きましたよ。それに、町のストライキを見たら、どうしても、貴方に会って、はっきりとすがらなくてはいけないと思いました。」
沈黙っている二人の耳に、まだ喚声が遠く聞えて来る。
「今晩町の芝居小屋で、職工達の演説があるから、一寸覗いてみなくては……」男は、自分の腕時計を床の上に投げると、そそくさと町へ出てしまった。私は、ぼんやりと部屋で、しゃっくりを続けながら、高価な金色の腕時計をそっと自分の腕にはめてみた。涙があふれた。東京で苦労した事や、裸で門を壊していた昼間の職工達の事が、グルグルしていて、時計の白い腹を見ていると目が廻りそうだった。
(八月×日)
宿の娘と連れだって浜を歩いた。今日でここへ来て一週間にもなる。
「くよくよおしんさんな。」私は何もかもつまらなくなって呆然としていると、宿の娘は私を心配してくれている。何も考えてやしない。何も考えようがないのだ。昨日は高松のお母さんへ電報ガワセを送ったし、私はこうして海の息を吸っているし、男がハラハラしようとしまいと、それはお勝手なのだ。私から何もかもむさぼり取ったひとなのだから、この位の事がいったい何だろうと思う。――尾道の海辺で、波止場の石垣に、お腹《なか》を打ちつけては、あのひとの子供を産む事をおそれていたけれど、今はそれもいじらしいお伽話《とぎばなし》になってしまった。昨日の電報ガワセで義父や母が一息ついてくれればいいと思うなり。浜辺を洗髪をなびかせながら歩いていると、町で下駄屋をしているあのひとの兄さんが、私をオーイオーイと後から呼びかけて来た。久し振りに見る兄さん、尾道の私の家に、枝になった蜜柑《みかん》や、オレンジを持って来てくれたあの姿そのままで笑いかけている。
「わしに、何も言わんもんじゃけん、苦労させやした。」
海が青く光っている。宿の娘をかえして、兄さんと二人で町はずれの兄さんの家へ歩いて行った。海近くまで、田が青々していて蜜柑山がうっそうと風に鳴っていた。
「あいつが気が弱いもんじゃけん。」
陽にやけた侘し気な顔をして兄さんは私をなぐさめてくれるなり。家では嫂《ねえ》さんが、米をついていた。牛が一匹優しい眼をして私を見ている。私は、どうしてもはいりたくなかったのだ。何だか、こんなところへ来た事さえも淋しくなっている。白い道のつづいている浜路を、私はあとしざりをするように、宿へ帰って行った。
(八月×日)
朝風をあびて、私は島へさよならとハンカチを振っている。どこへ行っても、どこにも仕様のない事だらけなのだ。東京へ帰ろう。私の財布は五六枚の十円札でふくらんでいた。兄さんの家でもらったお金とデベラの青籠と、風呂敷包みをかかえて、私は板子を渡って尾道行きの船へ乗った。
「気をつけてのう……」
「ええ! 兄さん、もうストライキはすんだんですか。」
「職工の方が折れさせられて手打ちになったが、太いもんにゃかなわないよ。」
あのひとも寝ぶそくな目をさせて波止場へ降りてきてくれていた。「体が元気だったら、又いつか会えるからね。」そんなことを小さい声で云った。船の中には露に濡れた野菜がうずたかく積んであった。
ああ何だか馬鹿になったよう
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