い出していた。落書だらけの汽船の待合所の二階に、木枕を借りて、つっぷしていると、波止場に船が着いたのか、汽笛の音がしている。波止場の雑音が、フッと悲しく胸に聞えた。「因の島行きが出やんすで……」歪《ゆが》んだ梯子段を上って客引が知らせに来ると、陽にやけた縞のはいった蝙蝠《こうもり》と、小さい風呂敷包みをさげて、私は波止場へ降りて行った。
「ラムネいりやせんか!」
「玉子買うてつかアしゃア。」
物売りの声が、夕方の波止場の上を行ったり来たりしている。紫色の波にゆれて因の島行きのポッポ船が白い水を吐いていた。漠々たる浮世だ。あの町の灯の下で、「ポオルとヴィルジニイ」を読んだ日もあった。借金取りが来て、お母さんが便所へ隠れたのを、学校から帰ったままの私は、「お母さんは二日程、糸崎へ行って来る云うてであった……」と嘘をついて母が、侘《わび》し気にほめてくれた事もあった。あの頃、町には城ヶ島の唄や、沈鐘の唄が流行《はや》っていたものだ。三銭のラムネを一本買った。
夜。
「皆さん、はぶ[#「はぶ」に傍点]い着きやんしたで!」
船員がロープをほどいている。小さな船着場の横に、白い病院の燈火が海にちらちら光っていた。この島で長い事私を働かせて学校へはいっていた男が、安々と息をしているのだ。造船所で働いているのだ。
「この辺に安宿はありませんでしょうか。」
運送屋のお上さんが、私を宿屋まで案内して行ってくれた。糸のように細い町筋を、古着屋や芸者屋が軒をつらねている。私は造船所に近い山のそばの宿へついた。二階の六畳の古ぼけた床の上に風呂敷包みをおくと、私は雨戸を開けて海を眺めた。明日は尋ねて行ってみようとおもう。私は財布を袂《たもと》に入れると、ラムネ一本のすきばらのまま潮臭い蒲団に長く足を延ばした。耳の奥の方で、蜂《はち》の様なブンブンと云う喚声があがっている。
(八月×日)
枕元をごそごそと水色の蟹《かに》が這《は》っている。町にはストライキの争議があるのだそうだ。
「会いに行きなさるというても、大変でごじゃんすで、それよりも、社宅の方へおいでんさった方が……」女中がそう云っている。私は心細くかまぼこを噛《か》んでいた。社員達は全部書類を持って倶楽部《クラブ》へ集まっていると云うことだ。食事のあと、私はぼんやりと戸外へ出てみた。万里の城のように、うねうねとコンクリートの壁をめぐらしたドックの建物を山の上から見降ろしていると、旗を押したてて通用門みたいなところに黒蟻《くろあり》のような職工の群が唸っていた。山の小道を子供を連れたお上さんやお婆さんが、点々と上って来る。八月の海は銀の粉を吹いて光っているし、縺《もつ》れた樹の色は、爽かな匂いをしていた。
「尾道から警官がいっぱい来たんじゃと。」
髪を後になびかせた若いお上さん達が、ドックを見下ろして話しあっていた。
「しっかりやれッ!」
「負けなはんな!」
「オーイ……」真昼間の、裸の職工達の肌を見ていると、私も両手をあげて叫んだ。旅の古里の言葉で、「しっかりやってつかアしゃア。」
「御亭主があそこにおってんな? うちの人は、こうなったら、もう死んでもええつもりでやる云いよりやんした。」
私はわけもなく涙があふれていた。事務員をしたりしてあんなにつくした私の男が、大学を出ると、造船所の社員になって、すました生活をしている、ここから見ていると、あんな門位はすぐ崩れてしまうようにもろく見えているのに……。
「職工は正直でがんすけん、皆体で打《ぶ》っつかって行きゃんさアね。」
とうとう門が崩れた。蜂が飛ぶように黒点が散った。光った海の上を、小舟が無数に四散して行っている。
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潮鳴の音を聞いたか!
茫漠と拡がった海の上の叫喚を聞いたか!
煤けたランプの灯を女房達に託して
島の職工達は磯の小石を蹴散《けちら》し
夕焼けた浜辺へ集まった。
遠い潮鳴の音を聞いたか!
何千と群れた人間の声を聞いたか!
ここは内海の静かな造船港だ
貝の蓋を閉じてしまったような
因の島の細い町並に
油で汚れたズボンや菜っぱ服の旗がひるがえっている
骨と骨で打ち破る工場の門の崩れる音
その音はワアン、ワアンと
島いっぱいに吠えていた。
青いペンキ塗りの通用門が勢いよく群れた肩に押されると
敏活なカメレオン達は
職工達の血と油で色どられた清算簿をかかえて
雪夜の狐のようにランチへ飛び乗って行ってしまう
表情の歪んだ固い職工達の顔から
怒りの涙がほとばしって
プチプチ音をたてているではないか
逃げたランチは
投網《とあみ》のように拡がった巡警の船に横切られてしまうと
さてもこの小さな島の群れた職工達と逃げたランチの間は
只一筋の白い水煙に消されてしまう。
歯を噛み額を地にすりつけても
空
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