みた。何度目の帰郷だろうと思う。
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露草の茎
粗壁《かべ》に乱れる
万里の城
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いまは何かしらうらぶれた感じが深い。昔つくった自分の詩の一章を思い出した。何もかも厭になってしまうけれど、さりとて、自分の世界は道いまだ遠しなのだ。この生ぐさきニヒリストは腹がなおると、じき腹がへるし、いい風景を見ると呆然としてしまうし、良い人間に出くわすと涙を感じるし、困った奴なり。バスケットから、新青年の古いのを出して読んだ。面白き笑話ひとつあり――。
―囚人|曰《いわ》く、「あの壁のはりつけの男は誰ですか?」
―宣教師答えて、「我等の父キリストなり。」
囚人が出獄して病院の小使いにやとわれると、壁に立派な写真が掛けてある。
―囚人、「あれは誰のです?」
―医師、「イエスの父なり。」
囚人、淫売婦を買って彼女の部屋に、立派な女の写真を見て――
―囚人、「あの女は誰だね。」
―淫売婦、「あれはマリヤさ、イエスの母さんよ。」
そこで囚人|歎《たん》じて曰く、子供は監獄に父親は病院に、お母さんは淫売帰にああ――。私はクツクツ笑い出してしまった。のろい閑散な夜汽車に乗って退屈していると、こんなにユカイなコントがめっかった。眠る。
(七月×日)
久し振りで見る高松の風景も、暑くなると妙に気持ちが焦々《いらいら》してきて、私は気が小さくなってくる。どことなく老いて憔悴《しょうすい》している母が、第一番に言った言葉は、「待っとったけん! わしも気が小さくなってねえ……」そう云って涙ぐんでいた。今夜は海の祭で、おしょうろ流しの夜だ。夕方東の窓を指さして、母が私を呼んだ。
「可哀そうだのう、むごかのう……」
窓の向うの空に、朝鮮牛がキリキリぶらさがっている。鰯雲《いわしぐも》がむくむくしている波止場の上に、黒く突き揚った船の起重機、その起重機のさきには一匹の朝鮮牛が、四足をつっぱって、哀れに唸《うな》っている。
「あんなのを見ると、食べられんのう……」
雲の上にぶらさがっているあの牛は、二三日の内には屠殺《とさつ》されてしまって、紫の印を押されるはずだ。何を考えているのかしら……。船着場には古綿のような牛の群が唸っていた。
鰯雲がかたくりのように筋を引いてゆくと、牛の群も何時《いつ》か去ってゆき、起重機も腕を降ろしてしまった。月の仄《ほの》かな海の上には、もう二ツ三ツおしょうろ船が流れていた。火を燃やしながら美しい紙船が、雁木《がんぎ》を離れて沖の方へ出ていた。港には古風な伝馬《てんま》船が密集している。そのあいだを火の紙船が月のように流れて行った。
「牛を食ったりおしょうろを流したり、人間も矛盾が多いんですねお母さん。」
「そら人間だもん……」
母は呆《ぼ》んやりした顔でそんな事を云っている。
*
(八月×日)
海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい。汽車が尾道の海へさしかかると、煤《すす》けた小さい町の屋根が提灯《ちょうちん》のように拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える、山は爽かな若葉だ。緑色の海向うにドックの赤い船が、帆柱を空に突きさしている。私は涙があふれていた。
貧しい私達親子三人が、東京行きの夜汽車に乗った時は、町はずれに大きい火事があったけれど……。「ねえ、お母さん! 私達の東京行きに火が燃えるのは、きっといい事がありますよ。」しょぼしょぼして隠れるようにしている母達を、私はこう言って慰めたものだけれど……だが、あれから、あしかけ六年になる。私はうらぶれた体で、再び旅の古里である尾道へ逆もどりしているのだ。気の弱い両親をかかえた私は、当もなく、あの雑音のはげしい東京を放浪していたのだけれど、ああ今は旅の古里である尾道の海辺だ。海添いの遊女屋の行燈《あんどん》が、椿《つばき》のように白く点々と見えている。見覚えのある屋根、見覚えのある倉庫、かつて自分の住居であった海辺の朽ちた昔の家が、五年前の平和な姿のままだ。何もかも懐しい姿である。少女の頃に吸った空気、泳いだ海、恋をした山の寺、何もかも、逆もどりしているような気がしてならない。
尾道を去る時の私は肩上げもあったのだけれど、今の私の姿は、銀杏返《いちょうがえ》し、何度も水をくぐった疲れた単衣《ひとえ》、別にこんな姿で行きたい家もないけれど、とにかくもう汽車は尾道にはいり、肥料臭い匂いがしている。
船宿の時計が五時をさしている。船着場の待合所の二階から、町の燈火《あかり》を見ていると、妙に目頭が熱くなってくるのだった。訪ねて行こうと思えば、行ける家もあるのだけれど、それもメンドウクサイことなり。切符を買って、あと五十銭玉一ツの財布をもって、私はしょんぼり、島の男の事を思
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