楽し気にコツコツ靴を鳴らしている。
「あそこがすずらんと云うカフエーですよ。」
 舞台の様なカフエーがあった。変ったマダムだって誰かに聞いたことがある。秋田氏はそのまま銀座へ行かれた。
 私は何か書きたい興奮で、沈黙《だま》って江戸川の方へ歩いて行った。

(七月×日)
 階下の旦那さんが二日程国へ行って来ますと云って、二階の私達へ後の事を頼みに今朝上ってみえたのに、社から帰ってみると、隣のミシンの娘さんが、帯をときかけている私を襖《ふすま》の間から招いた。
「あのね一寸!」
 低声なので、私もそっといざりよると、
「随分ひどいのよ、階下の奥さんてば外の男と酒を呑んでるのよ……」
「いいじゃないの、お客さんかも知れないじゃないですか。」
「だって、十八やそこいらの女が、あんなにデレデレして夫以外の男と酒を呑めるかしら……」
 帯を巻いて、ガーゼの浴衣をたたんで、下へ顔洗いに行くと、腰障子の向うに、十八の花嫁さんは、平和そうに男と手をつなぎあって転がっていた。昔の恋人かも知れないと思う。只うらやましいだけで、ミシンの娘さんのような興味もない。夜は御飯を炊くのがめんどうだったので、町の八百屋で一山十銭のバナナを買って来てたべた。女一人は気楽だとおもうなり。糊《のり》の抜けた三畳づりの木綿の蚊帳の中に、伸び伸びと手足を投げ出してクープリンの「ヤーマ」を読む。したたか者の淫売婦が、自分の好きな男の大学生に、非常な清純な気持ちを見せる。尨大な本だ、頭がつかれる。
「一寸起きてますか?」
 もう十時頃だろうか、隣のシンガーミシンさんが帰って来たらしい。
「ええまだねむれないでいます。」
「一寸! 大変よ!」
「どうしたんです。」
「呑気《のんき》ねッ、階下じゃ、あの男と一緒に蚊帳の中へはいって眠っててよ。」
 シンガーミシン嬢は、まるで自分の恋人でも取られたように、眼をギロギロさせて、私の蚊帳にはいって来た。いつもミシンの唄に明け暮れしている平和な彼女が、私の部屋になんかめったにはいって来ない行儀のいい彼女が、断りもしないで私の蚊帳へそっともぐり込んで来るのだ。そして大きい息をついて、畳にじっと耳をつけている。
「随分人をなめているわね、旦那さんがかえって来たら皆云ってやるから、私よか十も下なくせに、ませてるわね……」
 ガードを省線が、滝のような音をたてて走った。一度も縁づいた事のない彼女が、嫉妬がましい息づかいで、まるで夢遊病者のような変な狂態を演じようとしている。
「兄さんかも知れなくってよ。」
「兄さんだって、一ツ蚊帳には寝ないや。」
 私は何だか淋しく、血のようなものが胸に込み上げて来た。
「眼が痛いから電気を消しますよ。」と云うと、彼女はフンゼンとして沈黙って出て行った。やがて梯子《はしご》段をトントン降りて行ったかと思うと、「私達は貴女を主人にたのまれたのですよ。こんな事知れていいのですかッ!」と云う声がきこえている。切れ切れに、言葉が耳にはいってくる。一度も結婚をしないと云う事は、何と云う怖《おそ》ろしさだ。あんなにも強く云えるものかしら……。私は蒲団を顔へずり上げて固く瞼《まぶた》をとじた。何もかもいやいやだ。

(七月×日)
――ビョウキスグカエレタノム
 母よりの電報。本当かも知れないが、また嘘かも知れないと思った。だけど嘘の云えるような母ではないもの……、出社前なので、急いで旅支度をして旅費を借りに社へ行く。社長に電報をみせて、五円の前借りを申し込むと、前借は絶対に駄目だと云う。だが私の働いた金は取ろうと思えば十五円位はある筈なのだ。不安になって来る。廊下に置いたバスケットが妙に厭になってきた。大事な時間を「借りる!」と云う事で、それも正当な権利を主張しているのに、駄目だと云われて悄気《しょげ》てしまう。これは、こんなところでみきわめをつけた方がいいかも知れない。
「じゃ借りません! その代り止めますから今までの報酬を戴きます。」
「自分で勝手に止されるのですから、社の方では、知りませんよ。満足に勤めて下すっての報酬であって、また十二三日しかならないじゃありませんか!」
 黄色にやけたアケビのバスケットをさげて、私は又二階裏へかえって来た。ミシン嬢は、あれから階下の細君と気持ちが凍って、引っ越しをするつもりでいたらしかったが、帰って見ると、どこか部屋がみつかったらしく、荷物を運び出している処《ところ》だった。彼女の唯一の財産である、ミシンだけが、不恰好な姿で、荷車の上に乗っかっていた。全てはああ[#「ああ」に傍点]空《むな》しである――。

(七月×日)
 駅には、山や海への旅行者が白い服装で涼し気だった。下の細君に五円借りた。尾道まで七円くらいであろう。やっと財布をはたいて切符を買うと、座席を取ってまず指を折って
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