に傍点]が来ていた。日割でもらっても少しあまるし、来月になったら国へ少し送りましょう。階下でかたくりのねったのをよばれる。床へはいったのが十一時、今夜も隣のマズルカが流れて来る。コウフンして眠れず。
*
(九月×日)
今日もまたあの雲だ。
むくむくと湧き上る雲の流れを私は昼の蚊帳の中から眺めていた。今日こそ十二社《じゅうにそう》に歩いて行こう――そうしてお父さんやお母さんの様子を見てこなくちゃあ……私は隣の信玄袋に凭れている大学生に声を掛けた。
「新宿まで行くんですが、大丈夫でしょうかね。」
「まだ電車も自動車もありませんよ。」
「勿論《もちろん》歩いて行くんですよ。」
この青年は沈黙って無気味な暗い雲を見ていた。
「貴方はいつまで野宿をなさるおつもりですか?」
「さあ、この広場の人達がタイキャクするまでいますよ、僕は東京が原始にかえったようで、とても面白いんですよ。」
この生齧《なまかじ》りの哲学者メ。
「御両親のところで、当分落ちつくんですか……」
「私の両親なんて、私と同様に貧乏で間借りですから、長くは居りませんよ。十二社の方は焼けてやしないでしょうかね。」
「さあ、郊外は朝鮮人が大変だそうですね。」
「でも行って来ましょう。」
「そうですか、水道橋までおくってあげましょうか。」
青年は土に突きさした洋傘を取って、クルクルまわしながら雲の間から霧のように降りて来る灰をはらった。私は四畳半の蚊帳をたたむと、崩れかけた下宿へ走った。宿の人達は、みんな荷物を片づけていた。
「林さん大丈夫ですか、一人で……」
皆が心配してくれるのを振りきって、私は木綿の風呂敷を一枚持って、時々小さい地震のしている道へ出て行った。根津の電車通りはみみずのように野宿の群がつらなっていた。青年は真黒に群れた人波を分けて、くるくる黒い洋傘をまわして歩いている。
私は下宿に昨夜間代を払わなかった事を何だかキセキのように考えている。お天陽《てんとう》様相手に商売をしているお父さん達の事を考えると、この三十円ばかりの月給も、おろそかにはつかえない。途中一升一円の米を二升買った。外に朝日を五つ求める。
干しうどんの屑を五十銭買った。母達がどんなに喜んでくれるだろうと思うなり。じりじりした暑さの中に、日傘のない私は長い青年の影をふんで歩いた。
「よくもこんなに焼けたもんですね。」
私は二升の米を背負って歩くので、はつか鼠くさい体臭がムンムンして厭《いや》な気持ちだった。
「すいとんでも食べましょうか。」
「私おそくなるから止《よ》しますわ。」
青年は長い事立ち止って汗をふいていたが、洋傘をくるくるまわすとそれを私に突き出して云った。
「これで五十銭貸して下さいませんか。」
私はお伽話《とぎばなし》的なこの青年の行動に好ましい微笑を送った。そして気持ちよく桃色の五十銭札を二枚出して青年の手にのせてやった。
「貴方はお腹がすいてたんですね……」
「ハッハッ……」青年はそうだと云ってほがらかに哄笑《こうしょう》していた。
「地震って素敵だな!」
十二社までおくってあげると云う青年を無理に断って、私は一人で電車道を歩いた。あんなに美しかった女性群が、たった二三日のうちに、みんな灰っぽくなってしまって、桃色の蹴出《けだ》しなんかを出して裸足《はだし》で歩いているのだ。
十二社についた時は日暮れだった。本郷からここまで四里はあるだろう。私は棒のようにつっぱった足を、父達の間借りの家へ運んだ。
「まあ入れ違いですよ。今日引っ越していらっしたんですよ。」
「まあ、こんな騒ぎにですか……」
「いいえ私達が、ここをたたんで帰国しますから。」
私は呆然としてしまった。番地も何も聞いておかなかったと云う関西者らしい薄情さを持った髪のうすいこの女を憎らしく思った。私は堤の上の水道のそばに、米の風呂敷を投げるようにおろすと、そこへごろりと横になった。涙がにじんできて仕方がない。遠くつづいた堤のうまごやしの花は、兵隊のように皆地べたにしゃがんでいる。
星が光りだした。野宿をするべく心をきめた私は、なるべく人の多いところの方へ堤を降りて行くと、とっつきの歪んだ床屋の前にポプラで囲まれた広場があった。そこには、二三の小家族が群れていた。私がそこへ行くと、「本郷から、大変でしたね……」と、人のいい床屋のお上さんは店からアンペラを持って来て、私の為《た》めに寝床をつくってくれたりした。高いポプラがゆっさゆっさ風にそよいでいる。
「これで雨にでも降られたら、散々ですよ。」
夜警に出かけると云う、年とった御亭主が鉢巻をしながら空を見てつぶやいていた。
(九月×日)
朝。
久し振りに鏡を見てみた。古ぼけた床屋さんの鏡の中の私は、まるで山出しの女中
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