ている彼女は、気軽そうに口笛を吹いて私にたずねた。
「私二十八なのよ、三十五円くらいじゃ食えないわね。」
 私は黙って笑っていた。

(七月×日)
 大分仕事も馴れた。朝の出勤はことに楽しい。電車に乗っていると、勤めの女達が、セルロイドの円い輪のついた手垂《てさ》げ袋を持っている。月給をもらったら私も買いたいものだ。階下の小母さんはこの頃少し機嫌よし。――社へ行くと、まだ相棒さんは見えなくて、若い重役の相良《さがら》さんが一人で、二階の広い重役室で新聞を読んでいた。
「お早うございます。」
「ヤア!」
 事務服に着かえながら、ペンやインキを机から出していると、
「ここの扇風器をかけて。」と呼んでいる。
 私は屑箱を台にすると、高いかもい[#「かもい」に傍点]のスイッチをひねった。白い部屋の中が泡立つような扇風器の音、「アラ?」私は相良さんの両手の中にかかえられていた。心に何の用意もない私の顔に大きい男の息がかかって来ると、私は両足で扇風器を突き飛ばしてやった。
「アッハハハハハいまのはじょうだんだよ。」
 私は梯子段を飛びおりると、薄暗いトイレットの中でジャアジャア水を出した。頬を強く押した男の唇が、まだ固くくっついているようで、私は鏡を見ることがいやらしかった。
「いまのはじょうだんだよ……」
 何度顔を洗ってもこの言葉がこびりついている。

「怒った! 馬鹿だね君は……」
 ジャアジャア水を出している私を見て、降りて来た相良さんは笑って通り過ぎた。

 昼。
 黒い眼鏡の夫人と一緒に場の中へ行ってみる。高いベランダのようなところから拍子木が鳴ると、若い背ビロの男が、両手を拡げてパンパン手を叩いている。「買った! 買った!」ベランダの下には、芋をもむような人の頭、夫人は黒眼鏡をズリ上げながら、メモに何か書きつける。
 夫人を自動車のあるところまでおくると、また、小さなのし[#「のし」に傍点]袋に一円札のはいったのをもらう。何だかこんな幸運もまたズルリと抜けてゆきそうだ。帰ると、合百師《ごうひゃくし》達や小僧が丁半でアミダを引いていた。
「ねイ林さん! 私達もしない? 面白そうよ。」
 茶碗を伏せては、サイコロを振って、皆で小銭を出しあっていた。
「おい姉さん! はいんなよ……」
「…………」
「はいるといいものを見せてやるぜ。生れて初めてだわって、嬉しがる奴を見せてやるがどうだい。」
 羽二重のハッピをゾロリと着ながした一人の合百師が、私の手からペンを取って向うへ行ってしまった。
「アラ! そんないいもの……じゃアはいるわ、お金そんなにないから少しね。」
「ああ少しだよ、皆でおいなりさん買うんだってさ……」
「じゃ見せて!」
 相棒はペンを捨てて皆のそばへ行くと、大きいカンセイがおきる。
「さあ! 林さんいらっしゃいよ。」
 私も声につられて店の間へ行って見る。ハッピの裏いっぱいに描いた真赤な絵に私は両手で顔をおおうた。
「意気地がねえなア……」
 皆は逃げ出している私の後から笑っていた。

 夜。
 ひとりで、新宿の街を歩いた。

(七月×日)
「ああもしもし××の家《や》ですか? こちらは須崎ですがねイ、今日は一寸行かれませんから、明日の晩いらっしゃるそうです。××さんにそう云って下さいねイ。」
 又、重役が、どっか芸者屋へ電話をかけさせているのだろう、荻谷さんのねイがビンビンひびいている。
「ねイ! 林さん、今晩須崎さんがねイ、浅草をおごってくれるんですって……」
 私達は事務を早目に切りあげると、小僧一人を連れて、須崎と荻谷と私と四人で自動車に乗った。この須崎と云う男は上州の地主で、古風な白い浜縮緬《はまちりめん》の帯を腰いっぱいぐるぐる巻いて、豚のように肥った男だった。
「ちんやにでも行くだっぺか!」
 私も荻谷も吹き出して笑った。肉と酒、食う程に呑む程に、この豚男の自惚《うぬぼれ》話を聞いて、卓子の上は皿小鉢の行列である。私は胸の中かムンムンつかえ[#「つかえ」に傍点]そうになった。ちんやを出ると、次があらえっさっさの帝京座だ。私は頭が痛くなってしまった。赤いけだしと白いふくらっぱぎ、群集も舞台もひとかたまりになって何かワンワン唸りあっている。こんな世界をのぞいた事もない私は、妙に落ちつかなかった。小屋を出ると、ラムネとアイスクリーム屋の林立の浅草だ。上州生れのこの重役は、「ほう! お祭のようだんべえ。」とあたりをきょろきょろながめていた。
 私は頭が痛いので、途中からかえらしてもらう。荻谷女史は妙に須崎氏と離れたがらなかった。
「二人で待合へでも行くつもりでしょう。」
 小僧は須崎氏からもらった、電車の切符を二枚私に裂いてくれた。
「さよなら、又あした。」

 家へかえると、八百屋と米屋と炭屋のつけ[#「つけ」
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