も生れかわって来ましょう。昼から、千代田橋ぎわの株屋へ行ってみる。
――[#ここから横組み]1 2 3 4 5 6 7 8 9 10[#ここで横組み終わり]――
これだけの数字を何遍も書かせられると、私は大勢の応募者達と戸外へ出ていった。女事務員入用とあったけれど、又、簿記をつけさせるのかしら、でも、沢山の応募者達を見ると、当分私は風の子供だ。
明石《あかし》の女もメリンスの女も、一歩外に出ると、睨《にら》みあいを捨ててしまっている。
「どちらへお帰りですの?」
私はこの魚群のような女達に別れて、銀座まで歩いてみた。銀座を歩いていると、なぜか質屋へ行くことを考えている。とある陳列箱の中の小さな水族館では、茎のような細い鮎《あゆ》が、何尾も泳いでいた。銀座の鋪道《ほどう》が河になったら面白いだろうと思う。銀座の家並が山になったらいいな、そしてその山の上に雪が光っていたらどんなにいいだろう……。赤|煉瓦《れんが》の鋪道の片隅に、二銭のコマを売っている汚れたお爺さんがいた。人間って、こんな姿をしてまでも生きていなくてはならないのかしら、宿命とか運命なんて、あれは狐つきの云う事でしょうね、お爺さん! ナポレオンのような戦術家になって、そんな二銭のコマで停滞する事は止《や》めて下さい。コマ売りの老人の同情を強いる眼を見ていると、妙に嘲笑《ちょうしょう》してやりたくなる。あんなものと私と同族だなんて、ああ汚れたものと美しいものとけじめのつかない錯覚だらけのガタガタの銀座よ……家へかえったら当分履歴書はお休みだ。
[#ここから2字下げ]
空と風と
河と樹と
みんな秋の種子
流れて 飛んで
[#ここで字下げ終わり]
夜。
電気を消して畳に寝転んでいると、雲のない夜の空に大きい月が出ている。歪《ゆが》んだ月に、指を円めて覗《のぞ》き眼鏡していると、黒子《ほくろ》のようなお月さん! どこかで氷を削る音と風鈴が聞える。
「こんなに私はまだ青春があるのです。情熱があるんですよお月さん!」両手を上げて何か抱き締めてみたい侘しさ、私は月に光った自分の裸の肩をこの時程美しく感じた事はない。壁に凭れると男の匂いがする。ズシンと体をぶっつけながら、何か口惜《くや》しさで、体中の血が鳴るように聞える。だが呆然《ぼんやり》と眼を開くと、血の鳴る音がすっと消えてお隣でやっている蓄音器のマズルカの、ピチカットの沢山はいった嵐の音が美しく流れてくる。大陸的なそのヴァイオリンの音を聞いていると、明日のない自分ながら、生きなくては嘘だと云う気持ちが湧いて来るのだった。
(六月×日)
おとつい行った株屋から速達が来た。×日より御出社を乞う。私は胸がドキドキした。今日から株屋の店員さんだ。私は目の前が明るくなったような気がした。パラソルを二十銭で屑屋《くずや》に売った。
日立商会、これが私のこれからお勤めするところなり。隣が両替屋、前が千代田橋、横が鶏肉《とりにく》屋、橋の向うが煙草屋、電車から降りると、私は色んなものが豊かな気持ちで目についた。荻谷文子、これが私の相棒で、事務机に初めて差しむかいになると、二人共笑ってしまった。
「御縁がありましたのねイ。」
「ええ本当に、どうぞよろしくお願いします。」
この人は袴《はかま》をはいて来ているが、私も袴をはかなくちゃいけないのかしら……。二人の仕事はおトクイ様に案内状を出す事と、カンタンな玉づけをならって行く事だった。相棒の彼女は、岐阜の生まれで小学校の教師をしていたとかで、ネーと云う言葉が非常に強い。「そうしてねイー」二人の小僧が真似をしては笑う。お昼の弁当も美味《うま》し、鮭《さけ》のパン粉で揚げたのや、いんげんの青いの、ずいきのひたし、丹塗《にぬ》りの箱を両手にかかえて、私は遠いお母さんの事を思い出していた。
ニイカイ[#「ニイカイ」に傍点] サンヤリ!
自転車で走って小僧がかえって来ると、店の人達は忙がしそうにそれを黒板に書きつけたり電話をしている。
「奥のお客さんにお茶を一ツあげて下さい。」
重役らしい人が私の肩を叩いて奥を指差す。茶を持ってドアをあけると、黒眼鏡をかけた色の白い女のひとが、寒暖計の表のような紙に、赤鉛筆でしるしをつけていた。
「オヤ! これはありがとう、まあ、ここには女の人もいるのね、暑いでしょう……」
黒ずくめの恰好をした女のひとは、帯の間から五十銭銀貨二枚を出すと、氷でも召し上れと云って、私の掌にのせてくれた。
こんなお金を月給以外にもらっていいのかしら……前の重役らしい人に聞くと、くれるものはもらっておきなさいと云ってくれた。社の帰り、橋の上からまだ高い陽をながめて、こんなに楽な勤めならば勉強も出来ると思った。
「貴女はまだ一人なの?」
袴をはいて靴を鳴らし
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