のようだ。私は苦笑しながら髪をかきあげた。油っ気のない髪が、ばらばら額にかかって来る。床屋さんにお米二升をお礼に置いた。
「そんな事をしてはいけませんよ。」
 お上さんは一丁ばかりおっかけて来て、お米をゆさゆさ抱えて来た。
「実は重いんですから……」
 そう云ってもお上さんは二升のお米を困る時があるからと云って、私の背中に無理に背負わせてしまった。昨日来た道である。相変らず、足は棒のようになっていた。若松町まで来ると、膝《ひざ》が痛くなってしまった。すべては天真ランマンにぶつかってみましょう。私は、罐詰《かんづめ》の箱をいっぱい積んでいる自動車を見ると、矢もたてもたまらなくなって大きい声で呼んでみた。
「乗っけてくれませんかッ。」
「どこまで行くんですッ!」
 私はもう両手を罐詰の箱にかけていた。順天堂前で降ろされると、私は投げるように、四ツの朝日を運転手達に出した。
「ありがとう。」
「姉さんさよなら……」
 みんないい人達である。
 私が根津の権現様の広場へ帰った時には、大学生は例の通り、あの大きな蝙蝠《こうもり》傘の下で、気味の悪い雲を見上げていた。そして、その傘の片隅には、シャツを着たお父さんがしょんぼり煙草をふかして私を待っていたのだ。
「入れ違いじゃったそうなのう……」と父が云った。もう二人とも涙がこぼれて仕方がなかった。
「いつ来たの? 御飯たべた? お母さんはどうしています?」
 矢つぎ早やの私の言葉に、父は、昨夜朝鮮人と間違えられながらやっと本郷まで来たら、私と入れ違いだった事や、疲れて帰れないので、学生と話しながら夜を明かした事など物語った。私はお父さんに、二升の米と、半分になった朝日と、うどんの袋をもたせると、汗ばんでしっとりとしている十円札を一枚出して父にわたした。
「もらってええかの?……」
 お父さんは子供のようにわくわくしている。
「お前も一しょに帰らんかい。」
「番地さえ聞いておけば大丈夫ですよ、二三日内には又行きますから……」

 道を、叫びながら、人を探している人の声を聞いていると、私もお父さんも切なかった。
「産婆さんはお出でになりませんかッ……どなたか産婆さん御存知ではありませんか!」
 と、産婆を探して呼んでいる人もいた。

(九月×日)
 街角の電信柱に、初めて新聞が張り出された。久しぶりになつかしいたよりを聞くように、私も大勢の頭の後から新聞をのぞきこんだ。
 ――灘《なだ》の酒造家より、お取引先に限り、酒荷船に大阪まで無料にてお乗せいたします。定員五十名。
 何と云う素晴らしい文字だろう。ああ私の胸は嬉しさではち切れそうだった。私の胸は空想でふくらんだ。酒屋でなくったってかまうものかと思った。
 旅へ出よう。美しい旅の古里へ帰ろう。海を見て来よう――。
 私は二枚ばかりの単衣《ひとえ》を風呂敷に包むと、それを帯の上に背負って、それこそ飄然《ひょうぜん》と、誰にも沈黙《だま》って下宿を出てしまった。万世《まんせい》橋から乗合の荷馬車に乗って、まるでこわれた羽子板のようにガックンガックン首を振りながら長い事芝浦までゆられて行った。道中費、金七十銭也。高いような、安いような気持ちだった。何だか馬車を降りた時は、お尻が痺《しび》れてしまっていた。すいとん――うであずき――おこわ――果物――こうした、ごみごみと埃をあびた露店の前を通って行くと、肥料くさい匂いがぷんぷんしていて、芝浦の築港には鴎《かもめ》のように白い水兵達が群れていた。
「灘の酒船の出るところはどこでしょうか?」と人にきくと、ボートのいっぱい並んでいる小屋のそばの天幕の中に、その事務所があるのがわかった。
「貴女お一人ですか……」
 事務員の人達は、みすぼらしい私の姿をジロジロ注視《み》ていた。
「え、そうです。知人が酒屋をしてまして、新聞を見せてくれたのです。是非乗せて戴《いただ》きたいのですが……国では皆心配してますから。」
「大阪からどちらです。」
「尾道です。」
「こんな時は、もう仕様おまへん。お乗せしますよってに、これ落さんように持って行きなはれ……」
 ツルツルした富久娘《ふくむすめ》のレッテルの裏に、私の東京の住所と姓名と年齢と、行き先を書いたのを渡してくれた。これは面白くなって来たものだ。何年振りに尾道へ行く事だろう。あああの海、あの家、あの人、お父さんや、お母さんは、借金が山ほどあるんだから、どんな事があっても、尾道へは行かぬように、と云っていたけれど、少女時代を過したあの海添いの町を、一人ぽっちの私は恋のようにあこがれている。「かまうもんか、お父さんだって、お母さんだって知らなけりゃ、いいんだもの?」鴎のような水兵達の間をくぐって、酒の匂いのする酒荷船へ乗り込むことが出来た。――七十人ばかりの乗客の中に、
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