箱火鉢で茶をあたためて時間はずれの御飯をたべる。もう一時すぎなのに――。昨夜は二時、おとといは一時半、いつも十二時半にはきちんと帰っていた人が、時ちゃんに限ってそんな事もないだろうけれど……。茶ブ台の上には書きかけの原稿が二三枚散らばっている。もう家には十一銭しかないのだ。
 きちんきちんと、私にしまわせていた十円たらずのお金を、いつの間にか持って出てしまって、昨日も聞きそこなってしまったけれど、いったいどうしたのかしらと思う。
 蒸してはおろし蒸してはおろしするので、うむし釜の御飯はビチャビチャしていた。蛤鍋《はまぐりなべ》の味噌も固くなってしまった。私は原稿も書けないので、机を鏡台のそばに押しやって、淋しく床をのべる。ああ髪結さんにも行きたいものだ。もう十日あまりも銀杏返しをもたせているので、頭の地がかゆくて仕方がない。帰って来る人が淋しいだろうと、電気をつけて、紫の布をかけておく。
 三時。
 下のお上さんのブツブツ云う声に目を覚ますと、時ちゃんが酔っぱらったような大きな跫音《あしおと》で上って来た。酔っぱらっているらしい。
「すみません!」
 蒼《あお》ざめた顔に髪を乱して、紫のコートを着た時ちゃんが、蒲団の裾にくず折れると、まるで駄々ッ子のように泣き出してしまった。私は言葉をあんなに用意してまっていたのだけれど、一言も云えなくなってしまって沈黙っていた。
「さようならア時ちゃん!」
 若々しい男の声が窓の下で消えると、路地口で間抜けた自動車の警笛が鳴っていた。

(二月×日)
 二人共面伏せな気持ちで御飯をたべた。
「この頃は少しなまけているから、あなたは梯子段を拭いてね、私は洗濯をするから……」
「ええ私するから、ここほっといていいよ。」
 寝ぶそくなはれぼったい時ちゃんの瞼《まぶた》を見ていると、たまらなくいじらしくなって来る。
「時ちゃん、その指輪はどうして?」
 かぼそい薬指に、白い石が光って台はプラチナだった。
「その紫のコートはどうしたのよ?」
「…………」
「時ちゃんは貧乏がいやになってしまったのねえ?」
 私は階下の小母さんに顔を合せる事は肌が痛いようだった。

「姉さん! 時坊は少しどうかしてますよ。」
 水道の水と一緒に、小父さんの言葉が痛く胸に来た。
「近所のてまえがありまさあね、夜中に自動車をブウブウやられちゃあね、町内の頭《かしら》なんだから、一寸でも風評が立つと、うるさくてね……」
 ああ御もっとも様で、洗いものをしている背中にビンビン言葉が当って来る。

(二月×日)
 時ちゃんが帰らなくなって今日で五日である。ひたすら時ちゃんのたよりを待っている。彼女はあんな指輪や紫のコートに負けてしまっているのだ。生きてゆくめあて[#「めあて」に傍点]のないあの女の落ちて行く道かも知れないとも思う。あんなに、貧乏はけっして恥じゃあないと云ってあるのに……十八の彼女は紅も紫も欲しかったのだろう。私は五銭あった銅銭で駄菓子を五ツ買って来ると、床の中で古雑誌を読みながらたべた。貧乏は恥じゃあないと云ったもののあと五ツの駄菓子は、しょせん私の胃袋をさいどしてはくれぬ。手を延ばして押入れをあけて見る。白菜の残りをつまみ、白い御飯の舌ざわりを空想するなり。
 何もないのだ。涙がにじんで来る。電気でもつけましょう……。駄菓子ではつまらないと見えて腹がグウグウ辛気《しんき》に鳴っている。隣の古着屋さんの部屋では、秋刀魚《さんま》を焼く強烈な匂いがしている。
 食慾と性慾! 時ちゃんじゃないが、せめて一碗のめしにありつこうかしら。
 食慾と性慾! 私は泣きたい気持ちで、この言葉を噛んでいた。

(二月×日)
[#ここから2字下げ]
何にも云わないでかんにんして下さい。指輪をもらった人に脅迫されて、浅草の待合に居ります。このひとにはおくさんがあるんですけれど、それは出してもいいって云うんです。笑わないで下さいね。その人は請負師で、今四十二のひとです。
着物も沢山こしらえてくれましたの、貴女の事も話したら、四十円位は毎月出してあげると云っていました。私嬉しいんです。
[#ここで字下げ終わり]

 読むにたえない時ちゃんの手紙の上に私はこんな筈ではなかったと涙が火のように溢《あふ》れていた。歯が金物のようにガチガチ鳴った。私がそんな事をいつたのんだのだ! 馬鹿、馬鹿、こんなにも、こんなにも、あの十八の女はもろかったのかしら……目が円くふくれ上って、何も見えなくなる程泣きじゃくっていた私は、時ちゃんへ向って心で呼んで見た。
 所を知らせないで。浅草の待合なんて何なのよッ。
 四十二の男なんて!
 きもの、きもの。
 指輸もきものもなんだろう。信念のない女よ!
 ああ、でも、野百合のように可憐であったあの可愛い姿、きめの柔かい
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