桃色の肌、黒髪、あの女はまだ処女だったのに。何だって、最初のベエゼをそんな浮世のボオフラのような男にくれてしまったのだろう……。愛らしい首を曲げて、春は心のかわたれに……私に唄ってくれたあの少女が、四十二の男よ呪《のろ》われてあれだ!
「林さん書留ですよッ!」
珍らしく元気のいい小母さんの声に、梯子段に置いてある封筒をとり上げると、時事の白木さんからの書留だった。金二十三円也! 童話の稿料だった。当分ひもじいめをしないでもすむ。胸がはずむ、ああうれしい。神さま、あんまり幸福なせいか、かえって淋しくて仕様がない。神様神様、嬉しがってくれる相棒が四十二の男に抱かれているなんて……。
白木さんのいつものやさしい手紙がはいっている。いつも云う事ですが、元気で御奮闘御精励を祈りまつる。――私は窓をいっぱいあけて、上野の鐘を聞いた。晩はおいしい寿司でも食べましょう。
[#改丁]
第二部
[#改ページ]
(一月×日)
[#ここから2字下げ]
私は野原へほうり出された赤いマリ
力強い風が吹けば
大空高く
鷲《わし》の如く飛びあがる
おお風よ叩け
燃えるような空気をはらんで
おお風よ早く
赤いマリの私を叩いてくれ
[#ここで字下げ終わり]
(一月×日)
雪空。
どんな事をしてでも島へ行ってこなくてはいけない。島へ行ってあのひとと会って来よう。
「こっちが落目になったけん、馬鹿にしとるとじゃろ。」
私が一人で島へ行く事をお母さんは賛成をしていない。
「じゃア、今度島へお母さん達が行くときには連れて行って下さい。どうしても会って話して来たいもの……」
私に「サーニン」を送ってよこして、恋を教えてくれた男じゃないか、東京へ初めて連れて行ったのもあの男、信じていていいと言ったあのひとの言葉が胸に来る。――波止場には船がついたのか、低い雲の上に、船の煙がたなびいていた。汐風《しおかぜ》が胸の中で大きくふくらむ。
「気持ちのなくなっているものに、さっちついて行く事もないがの……サイナンと思うてお母さん達と一緒に又東京へ行った方がええ。」
「でも、一度会うて話をして来んことには、誰だって行き違いと云う事はあるもの……」
「考えてみなさい、もう去年の十一月からたよりがないじゃないかの、どうせ今は正月だもの、本気に考えがあれば来るがの、あれは少し気が小さいけん仕様がない。酉《とり》年はどうもわしはすかん。」
私は男と初めて東京へ行った一年あまりの生活の事を思い出した。
晩春五月のことだった。散歩に行った雑司《ぞうし》ヶ|谷《や》の墓地で、何度も何度もお腹《なか》をぶっつけては泣いた私の姿を思い出すなり。梨のつぶてのように、私一人を東京においてけぼりにすると、いいかげんな音信しかよこさない男だった。あんなひとの子供を産んじゃア困ると思った私は、何もかもが旅空でおそろしくなって、私は走って行っては墓石に腹をドシンドシンぶっつけていたのだ。男の手紙には、アメリカから帰って来た姉さん夫婦がとてもガンコに反対するのだと云っている。家を出てでも私と一緒になると云っておいて、卒業あと一年間の大学生活を私と一緒にあの雑司ヶ谷でおくったひとだのに、卒業すると自分一人でかえって行ってしまった。あんなに固く信じあっていたのに、お養父《とう》さんもお母さんも忘れてこんなに働いていたのに、私は浅い若い恋の日なんて、うたかたの泡《あわ》よりはかないものだと思った。
「二三日したら、わしも商売に行くけん、お前も一度行って会うて見るとええ。」
そろばん[#「そろばん」に傍点]を入れていたお養父さんはこう言ってくれたりした。尾道《おのみち》の家は、二階が六畳二間、階下は帆布と煙草を売るとしより夫婦が住んでいる。
「随分この家も古いのね。」
「あんたが生れた頃、この家は建ったんですよ。十四五年も前にゃア、まだこの道は海だったが、埋立して海がずっと向うへ行きやんした。」
明治三十七年生れのこの煤《すす》けた浜辺の家の二階に部屋借りをして、私達親子三人の放浪者は気安さを感じている。
「汽車から見て、この尾道はとても美しかったもんのう。」
港の町は、魚も野菜もうまいし、二度目の尾道帰りをいつもよろこんでいて、母は東京の私へ手紙をよこしていた。帰ってみると、家は違っていても、何もかもなつかしい。行李《こうり》から本を出すと、昔の私の本箱にはだいぶ恋の字がならんでいる。隣室は大工さん夫婦、お上《かみ》さんはだるま上りの白粉《おしろい》の濃い女だった。今晩、町は、寒施行《かんせぎょう》なので、暗い寒い港町には提灯《ちょうちん》の火があっちこっち飛んでいた。赤飯に油揚げを、大工さんのお上さんは白粉くさい手にいっぱいこんなものを持って来てくれた。
「おばさんは、二三日う
前へ
次へ
全133ページ中44ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング