の高い時ちゃんの顔をこっちに向けて日記をつけた。
「炭はあるの?」
「炭は、階下の小母さんが取りつけの所から月末払いで取ってやるって云ったわ。」
 時ちゃんは安心したように、銀杏《いちょう》がえしのびんを細い指で持ち上げて、私の背中に凭《もた》れている。
「大丈夫ってばさ、明日からうんと働くから元気を出して勉強してね。浅草を止《や》めて、日比谷あたりのカフエーなら通いでいいだろうと思うの、酒の客が多いんだって、あの辺は……」
「通いだと二人とも楽しみよねえ、一人じゃ御飯もおいしくないじゃないの。」
 私は煩雑だった今日の日を思った。――萩原さんとこのお節ちゃんに、お米も二升もらったり、画描の溝口《みぞぐち》さんは、折角北海道から送って来たと云う餅を、風呂敷に分けてくれたり、指輪を質屋へ持って行ってくれたりした。
「当分二人で一生懸命働こうね、ほんとに元気を出して……」
「雑色のお母さんのところへは、月に三十円も送ればいいんだから。」
「私も少し位は原稿料がはいるんだから、沈黙《だま》って働けばいいのよ。」
 雪の音かしら、窓に何かササササと当っている音がしている。
「シクラメンって厭な匂いだ。」
 時ちゃんは、枕元の紅いシクラメンの鉢をそっと押しやると、簪《かんざし》も櫛《くし》も枕元へ抜いて、「さあ寝んねしましょう。」と云った。暗い部屋の中では、花の匂いだけが強く私達をなやませた。

(二月×日)
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積る淡雪積ると見れば
消えてあとなき儚《はか》なさよ
柳なよかに揺れぬれど
春は心のかわたれに……。
[#ここで字下げ終わり]

 時ちゃんの唄声でふっと目を覚ますと、枕元に白い素足がならんでいた。
「あら、もう起きたの。」
「雪が降ってるのよ。」
 起きると湯もわいていて、窓外の板の上で、御飯がグツグツ白く吹きこぼれていた。
「炭はもう来たのかしら?」
「階下の小母さんに借りたのよ。」
 いつも台所をした事のない時ちゃんが、珍らしそうに、茶碗をふいていた。久し振りに猫の額程の茶ブ台の上で、幾年にもない長閑《のどか》なお茶を呑むなり。
「やまと館の人達や、当分誰にもところを知らさないでおきましょうね。」
 時ちゃんはコックリをして、小さな火鉢に手をかざしている。
「こんなに雪が降っても出掛ける?」
「うん。」
「じゃあ私も時事新聞の白木さんに会ってこよう。童話が行ってるから。」
「もらえたら、熱いものをこしらえといて、あっちこっち行って見るから、私はおそくなることよ。」
 初めて、隣の六畳の古着屋さん夫婦にもあいさつ[#「あいさつ」に傍点]をする。鳶《とび》の頭《かしら》をしていると云う階下のお上さんの旦那にも会う。皆、歯ぎれがよくて下町人らしい人達だ。
「この家も前は道路に面していたんですよ。でも火事があってねえ、こんなとこへ引っこんじゃって……うちの前はお妾《めかけ》さん、路地のつきあたりは清元でこれは男の師匠でしてね、やかましいには、やかましゅうござんすがね……」
 私はおはぐろで歯をそめているお上さんを珍らしく見ていた。
「お妾さんか、道理で一寸見たけどいい女だったわよ。」
「でも階下の小母さんがあんたの事を、この近所には一寸居ない、いい娘ですってさ。」
 二人は同じような銀杏返しをならべて雪の町へ出て行った。雪はまるで、気の抜けた泡《あわ》のように、目も鼻もおおい隠そうとする程、やみくもに降っている。
「金もうけは辛いね。」雪よドンドン降ってくれ、私が埋まる程、私はえこじに傘をクルクルまわして歩いた。どの窓にも灯のついている八重洲《やえす》の大通りは、紫や、紅のコートを着た勤めがえりの女の人達が、雪にさからって歩いている。コートも着ない私の袖は、ぐっしょり濡れてしまって、みじめなヒキ蛙《がえる》のようだ。――白木さんはお帰りになった後か、そうれ見ろ! これだから、やっぱりカフエーで働くと云うのに、時ちゃんは勉強をしろと云うなり。新聞社の広い受付に、このみじめな女は、かすれた文字をつらねて困っておりますからとおきまりの置手紙を書いた。
 だが時事のドアは面白いな。クルリクルリ、まるで水車のようだ。クルリと二度押すと、前へ逆もどりしている。郵便屋が笑っていた。何と小さな人間たちよ。ビルディングを見上げると、お前なんか一人生きてたって、死んだって同じじゃないかと云っているようだ。だけど、あのビルディングを売ったら、お米も間代も一生はらえて、古里に長い電報が打てるだろう。成金になるなんて云ってやったら邪けんな親類も、冷たい友人もみんな、驚くことだろう。あさましや芙美子よ、消えてしまえ。時ちゃんは、かじかんでこの雪の中を野良犬のように歩いているんだろうに――。

(二月×日)
 ああ今晩も待ち呆《ぼう》け。
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