らねば
富士をいい山だと賞めるには当らない

あんな山なんかに負けてなるものか
汽車の窓から何度も思った回想
尖《とが》った山の心は
私の破れた生活を脅かし
私の眼を寒々と見下ろす。

富士を見た
富士山を見た
烏よ
あの山の尾根から頂上へと飛び越えて行け
真紅《まっか》な口でひとつ嘲笑《あざわら》ってやれ

風よ!
富士は雪の大悲殿だ
ビュン、ビュン吹きまくれ
富士山は日本のイメージイだ
スフィンクスだ
夢の濃いノスタルジヤだ
魔の住む大悲殿だ。

富士を見ろ
富士山を見ろ
北斎《ほくさい》の描いたかつてのお前の姿の中に
若々しいお前の火花を見たけれど

今は老い朽ちた土まんじゅう
ギロギロした眼をいつも空にむけているお前
なぜ不透明な雪の中に逃避しているのだ

烏よ風よ
あの白々とさえかえった
富士山の肩を叩いてやれ
あれは銀の城ではない
不幸のひそむ雪の大悲殿だ

富士山よ!
お前に頭をさげない女がここにひとり立っている
お前を嘲笑《ちょうしょう》している女がここにいる。

富士山よ富士よ
颯々《さっさつ》としたお前の火のような情熱が
ビュンビュン唸って
ゴオジョウなこの女の首を叩き返すまで
私はユカイに口笛を吹いて待っていよう。
[#ここで字下げ終わり]

 私はまた元のもくあみだ。胸にエプロンをかけながら二階の窓をあけに行くと、遠い向うに薄い富士山が見えた。あああの山の下を私は幾度か不幸な思いをして行き返りした事である。でもたとえ小さな旅でも、二日の外房州のあの寥々《りょうりょう》たる風景は、私の魂も体も汚れのとれた美しいものにしてくれた。野中の一本杉の私は、せめてこんな楽しみでもなければやりきれない。明日から紅葉デーで、私達は狂人のような真紅な着物のおそろいだそうである。都会の人間はあとからあとから、よくもこんなはずかしくもない、コッケイな趣向を思いつくものだと思う。又新らしい女が来ている。今晩もお面のように白粉《おしろい》をつけて、二重な笑いでごまかしか……うきよとはよくも云い当てしものかな――。留守中、母から、さらしの襦袢が二枚送って来ていた。

        *

(一月×日)
 カフエーで酔客にもらった指輪が思いがけなく役立って、十三円で質に入れると私と時ちゃんは、千駄木の町通りを買物しながら歩いた。古道具屋で箱火鉢と小さい茶ブ台を買ったり、沢庵や茶碗や、茶呑道具まで揃《そろ》えると、あとは半月分あまりの間代を入れるのがせいいっぱいだった。十三円の金の他愛なさよ。
 寒い息を吐きながら、二人が重い荷物を両方から引っぱって帰った時は、丁度十時近かった。
「一寸! 前のうちねえ、小唄の師匠さんよ、ホラ……いいわね。」

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傘さして
かざすや廓《くるわ》の花吹雪
この鉢巻は過ぎしころ
紫におう江戸の春
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 目と鼻の路地向うの二階屋から、沈んだ三味線の音〆《ねじめ》がきこえている。細目にあけた雨戸の蔭には、お隣の灯の明るい障子のこまかいサンが見える。
「お風呂は明日にして寝ましょう、上蒲団は借りたのかしら?」
 時ちゃんはピシャリと障子を締めた。――敷蒲団はたいさんと私と一緒の時代のがたいさんが小堀さんのところへお嫁に行ったので残っていた。あの人は鍋《なべ》も庖丁《ほうちょう》も敷蒲団も置いて行ってしまった。一番なつかしく、一番厭な思い出の残った本郷の酒屋の二階を私は思い出していた。同居の軍人上りや二階でおしめを洗ったその細君や、人のいい酒屋の夫婦や。用が片づいたら、あの頃の日記でも出して読みましょう。
「どうしたかしら、たい子さん?」
「あのひとも、今度こそは幸福になったでしょう。小堀さん、とても、ガンジョウないい人だそうだから、誰が来ても負けないわ……」
「いつか遊びに連れて行ってね。」
 二人は、階下の小母さんから借りた上蒲団をかぶって寝た。日記をつける。

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一、拾参円の内より
 茶ブ台 壱円。
 箱火鉢 壱円
 シクラメン一鉢 参拾五銭。
 飯茶わん 弐拾銭。 二個。
 吸物わん 参拾銭。 二個。
 ワサビヅケ 五銭。
 沢庵 拾壱銭。
 箸《はし》 五銭。 五人前。
 茶呑道具 盆つき 壱円拾銭。
 桃太郎の蓋物 拾五銭。
 皿 弐拾銭。 二枚。
 間代日割り 六円。(三畳九円)
 火箸 拾銭。
 餅網 拾弐銭。
 ニュームのつゆ杓子《しゃくし》 拾銭。
 御飯杓子 参銭。
 鼻紙一束 弐拾銭。
 肌色美顔水 弐拾八銭。
 御神酒 弐拾五銭。 一合。
 引越し蕎麦《そば》 参拾銭。 階下へ。
一、壱円拾六銭 残金
[#ここで字下げ終わり]

「たったこれだけじゃ、心細いわねえ……」
 私は鉛筆のしんで頬っぺたを突つきながら、つんと鼻
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