とした秋景色である。小さなバスケット一つに一切をたくして、私は興津《おきつ》行きの汽車に乗っている。土気《とけ》を過ぎると小さなトンネルがあった。

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サンプロンむかしロオマの巡礼の
知らざる穴を出でて南す。
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 私の好きな万里《ばんり》の歌である。サンプロンは、世界最長のトンネルだと聞いていたけれど、一人のこうした当のない旅でのトンネルは、なぜかしんみりとした気持ちになる。海へ行く事がおそろしくなった。あの人の顔や、お母さんの思いが、私をいたわっている。海まで走る事がこわくなった。――三門《みかど》で下車する。燈火がつきそめて駅の前は桑畑。チラリホラリ藁《わら》屋根が目についてくる。私はバスケットをさげたままぼんやり駅に立っていた。
「ここに宿屋がありますでしょうか?」
「この先の長者町までいらっしゃるとあります。」
 私は日在浜《ひありはま》を一直線に歩いていた。十月の外房州の海は黒くもりあがっていて、海のおそろしいまでな情熱が私をコウフンさせてしまった。只海と空と砂浜ばかりだ。それもあたりは暮れそめている。この大自然を見ていると、なんと人間の力のちっぽけな事よと思うなり。遠くから、犬の吠える声がする。かすり[#「かすり」に傍点]の半纏《はんてん》を着た娘が、一匹の黒犬を連れて、歌いながら急いで来た。波が大きくしぶきすると犬はおびえたようにキリッと首をもちあげて海へ向って吠えた。遠雷のような海の音と、黒犬の唸《うな》り声は何かこわい感じだ。
「この辺に宿屋はありませんか?」
 この砂浜にたった一人の人間であるこの可憐《かれん》な少女に私は呼びかけてみた。
「私のうちは宿屋ではないけれど、よかったらお泊りなさい。」
 何の不安もなく、その娘は私を案内してくれた。うすむらさきのなぎなたほおずきを、器用に鳴らしながら、娘は私を連れて家へ引返してくれた。
 日在浜のはずれで、丁度長者町にかかった砂浜の小さな破船のような茶屋である。この茶屋の老夫婦は、気持ちよく風呂をわかしてくれたりした。こんな伸々と自然のままな姿で生きていられる世界もある。私は、都会のあの荒れた酒場の空気を思い出すさえおそろしく思った。天井には、何の魚なのか、魚の尻尾《しっぽ》の乾いたのが張りつけてある。
 この部屋の電気も暗ければこの旅の女の心も暗い。あんなに憧憬《あこが》れていた裏日本の秋は見る事が出来なかったけれども、この外房州は裏日本よりも豪快な景色である。市振から親不知《おやしらず》へかけての民家の屋根には、沢庵石のようなのが沢山置いてあった。線路の上まで白いしぶきのかかるあの蒼茫《そうぼう》たる町、崩れた崖《がけ》の上にとげとげと咲いていたあざみの花、皆、何年か前のなつかしい思い出である。私は磯臭い蒲団にもぐり込むと、バスケットから、コロロホルムのびん[#「びん」に傍点]を出して一二滴ハンカチに落した。このまま消えてなくなりたい今の心に、じっと色々な思いにむせている事がたまらなくなって、私は厭なコロロホルムの匂いを押し花のように鼻におし当てていた。

(十一月×日)
 遠雷のような汐鳴《しおな》りの音と、窓を打つ瀟々《しょうしょう》たる雨の音に、私がぼんやり目を覚ましたのは十時頃だったろうか、コロロホルムの酢のような匂いが、まだ部屋中に流れているようで、私はそっと窓を開けた。入江になった渚《なぎさ》には蒼く染ったような雨が煙っていた。しっとりとした朝である。母屋でメザシを焼く匂いがする。――昼からあんまり頭が痛むので、娘と二人で黒犬を連れて、日在浜の方へ散歩に出て見た。渚近い漁師の家では、女や子供たちが三々五々群れていて、生鰯《なまいわし》を竹串《たけぐし》につきさしていた。竹串にさされた生鰯が、むしろの上にならんで、雨あがりの薄陽がその上に銀を散らしている。娘はバケツにいっぱい生鰯を入れてもらうとその辺の雑草を引き抜いてかぶせた。
「これで十銭ですよ。」帰り道、娘は重そうにバケツを私の前に出してこう云った。

 夜は生鰯の三バイ酢に、海草の煮つけに生玉子の御馳走だった。娘はお信さんと云って、お天気のいい日は千葉から木更津にかけて魚の干物の行商に歩くのだそうである。店で茶をすすりながら、老夫婦にお信さんと雑談をしていると、水色の蟹《かに》が敷居の上をゴソゴソ這《は》って行く。生活に疲れ切った私は、石ころのように動かないこの人達の生活を見ていると、何となく羨《うらや》ましくなって来る。風が出たのか、雨戸が難破船のようにゆれて、チエホフの小説にでもありそうな古風な浜辺の宿なり。十一月にはいると、このへんではもう足の裏がつめたい。

(十一月×日)
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富士を見た
富士山を見た
赤い雪でも降
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