いるよりも、こんなにさっぱりした海の上で、自由にのびのびと息を吸える事は、ああやっぱり生きている事もいいものだと思う。

(十二月×日)
 真黄いろに煤《すす》けた障子を開けて、消えかけては降っている雪をじっと見ていると、何もかも一切忘れてしまう。
「お母さん! 今年は随分雪が早いね。」
「ああ。」
「お父さんも寒いから難儀しているでしょうね。」
 父が北海道へ行ってから、もう四カ月あまりになる、遠くに走りすぎて商売も思うようになく、四国へ帰るのは来春だと云う父のたよりが来て、こちらも随分寒くなった。屋並の低い徳島の町も、寒くなるにつれて、うどん屋のだし[#「だし」に傍点]を取る匂いが濃くなって、町を流れる川の水がうっすらと湯気を吐くようになった。泊る客もだんだん少くなると、母は店の行燈《あんどん》へ灯を入れるのを渋ったりしている。
「寒うなると人が動かんけんのう……」
 しっかりした故郷と云うものをもたない私達親子三人が、最近に落ちついたのがこの徳島だった。女の美しい、川の綺麗《きれい》なこの町隅に、古ぼけた旅人宿を始め出して、私は徳島での始めての春秋を迎えたけれど、だけどそれも小さかった時の私である。今はもうこの旅人宿も荒れほうだいに荒れて、いまは母一人の内職仕事になってしまった。父を捨て、母を捨て、東京に疲れて帰ってきた私にも、昔のたどたどしい恋文や、ひさし髪の大きかった写真を古ぼけた箪笥《たんす》の底にひっくり返してみると懐しい昔の夢が段々|蘇《よみがえ》って来る。長崎の黄いろいちゃんぽんうどんや、尾道の千光寺の桜や、ニユ川で覚えた城ヶ島の唄やああみんななつかしい。絵をならい始めていた頃の、まずいデッサンの幾枚かが、茶色にやけていて、納戸《なんど》の奥から出て来るとまるで別な世界だった私を見る。夜、炬燵《こたつ》にあたっていると、店の間を借りている月琴《げっきん》ひきの夫婦が飄々《ひょうひょう》と淋しい唄をうたっては月琴をひびかせていた。外は音をたててみぞれ[#「みぞれ」に傍点]まじりの雪が降っている。

(十二月×日)
 久し振りに海辺らしいお天気なり。二三日前から泊りこんでいる浪花節《なにわぶし》語りの夫婦が、二人共黒いしかん[#「しかん」に傍点]巻を首にまいて朝早く出て行くと、煤けた広い台所には鰯《いわし》を焼いている母と私と二人きりになってしまう。ああ田舎にも退屈してしまった。
「お前もいいかげんで、遠くへ行くのを止めてこっちで身をかためてはどうかい。お前をもらいたいと云う人があるぞな……」
「へえ……どんなひとですか?」
「実家は京都の聖護院《しょうごいん》の煎餅《せんべい》屋でな、あととりやけど、今こっちい来て市役所へ勤めておるがな……いい男や。」
「…………」
「どやろ?」
「会うてみようかしら、面白いなア……」
 何もかもが子供っぽくゆかい[#「ゆかい」に傍点]だった。田舎娘になって、初々しく顔を赤めてお茶を召し上れか、車井戸のつるべを上げたり下げたりしていると、私も娘のように心がはずんで来る。ああ情熱の毛虫、私は一人の男の血をいたち[#「いたち」に傍点]のように吸いつくしてみたいような気がする。男の肌は寒くなると蒲団のように恋しくなるものだ。
 東京へ行きましょう。夕方の散歩に、いつの間にか足が向くのは駅への道だ。駅の時間表を見ていると涙がにじんで来て仕方がない。

(十二月×日)
 赤靴のひも[#「ひも」に傍点]をといてその男が座敷へ上って来ると、妙に胃が悪くなりそうで、私は真正面から眉をひそめてしまった。
「あんたいくつ?」
「僕ですか、二十二です。」
「ホウ……じゃ私の方が上だわ。」
 げじげじ眉で、唇の厚いその顔は、私は何故《なぜ》か見覚えがあるようであったが、考え出せなかった。ふと、私は明るくなって、口笛でも吹きたくなった。

 月のいい夜だ、星が高く光っている。
「そこまでおくってゆきましょうか……」
 この男は妙によゆうのある風景だ。入れ忘れてしま[#「しま」に傍点]った国旗の下をくぐって、月の明るい町に出てゆくと、濁った息をフッと一時に吐く事が出来た。一丁歩いても二丁歩いても二人共だまって歩いている。川の水が妙に悲しく胸に来て私自身が浅ましくなってきた。男なんて皆火を焚《た》いて焼いてしまえだ。私はお釈迦《しゃか》様にでも恋をしましょう。ナムアミダブツのお釈迦様は、妙に色ッぽい目をして、私のこの頃の夢にしのんでいらっしゃる。
「じゃアさよなら、あなたいいお嫁さんおもちなさいね。」
「ハア?」
 いとしい男よ、田舎の人は素朴でいい。私の言葉がわかったのかわからないのか、長い月の影をひいて隣の町へ行ってしまった。明日こそ荷づくりをして旅立ちましょう……。久し振りに家の前の燈火のついたお泊宿
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