なると、ほんとうに泥棒にでもはいりたくなってくる。だが目が近いのでいっぺんにつかまってしまう事を思うと、ふいとおかしくなってしまって、冷たい壁に私の嗤《わら》いがはねかえる。何とかして金がほしい。私の濁った錯覚は、他愛もなく夢に溺《おぼ》れていて、夕方までぐっすり眠ってしまった。

(十二月×日)
 お君さんが誘いに来て、二人は又何かいい商売をみつけようと、小さい新聞の切抜きをもって横浜行きの省線に乗った。今まで働いていたカフエーが寂《さび》れると、お君さんも一緒にそこを止めてしまって、お君さんは、長い事板橋の御亭主のとこへ帰っていたのだ。お君さんの御亭主はお君さんより三十あまりも年が上で、初めて板橋のその家へたずねて行った時、私はその男のひとをお君さんのお父さんなのかと間違えてしまっていた。お君さんの養母やお君さんの子供や、何だかごたごたしたその家庭は、めんどくさがりやの私にはちょいと判りかねる。お君さんもそんな事はだまって別に話もしない。私もそんな事を訊くのは胸が痛くなるのだ。二人共だまって、電車から降りると、青い海を見はらしながら丘へ出てみた。
「久し振りよ、海を見るのは……」
「寒いけれど、いいわね海は……」
「いいとも、こんなに男らしい海を見ていると、裸になって飛びこんでみたいわね。まるで青い色がとけてるようじゃないの。」
「ほんと! おっかないわ……」
 ネクタイをひらひらさせた二人の西洋人が雁木《がんぎ》に腰をかけて波の荒い景色にみいっていた。
「ホテルってあすこよ!」
 目のはやい君ちゃんがみつけたのは、白い家鴨《あひる》の小屋のような小さな酒場だった。二階の歪んだ窓には汚点《しみ》だらけな毛布が太陽にてらされている。
「かえりましょうよ!」
「ホテルってこんなの……」
 朱色の着物を着た可愛らしい女が、ホテルのポーチで黒い犬をあやして一人でキャッキャッと笑っていた。
「がっかりした……」
 二人共又押し沈黙って向うの寒い茫漠とした海を見ている。烏になりたい。小さいカバンでもさげて旅をするといいだろうと思う。君ちゃんの日本風なひさし髪が風に吹かれていて、雪の降る日の柳のようにいじらしく見えた。

(十二月×日)
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風が鳴る白い空だ!
冬のステキに冷たい海だ
狂人だってキリキリ舞いをして
目のさめそうな大海原だ
四国まで一本筋の航路だ。

毛布が二十銭お菓子が十銭
三等客室はくたばりかけたどじょう鍋《なべ》のように
ものすごいフットウだ。

しぶきだ雨のようなしぶきだ
みはるかす白い空を眺め
十一銭在中の財布を握っていた。

ああバットでも吸いたい
オオ! と叫んでも
風が吹き消して行くよ。

白い大空に
私に酢を呑ませた男の顔が
あんなに大きく、あんなに大きく

ああやっぱり淋しい一人旅だ!
[#ここで字下げ終わり]

 腹の底をゆすぶるように、遠くで蒸汽の音が鳴っている。鉛色によどんだ小さな渦巻が幾つか海のあなたに一ツ一ツ消えて行って、唸《うな》りをふくんだ冷たい十二月の風が、乱れた私の銀杏返しの鬢《びん》を頬っぺたにくっつけるように吹いてゆく。八ツ口に両手を入れて、じっと柔かい自分の乳房をおさえていると、冷たい乳首の感触が、わけもなく甘酸っぱく涙をさそってくる。――ああ、何もかもに負けてしまった。東京を遠く離れて、青い海の上をつっぱしっていると、色々に交渉のあった男や女の顔が、一ツ一ツ白い雲の間からもやもやと覗いて来るようだ。

 あんまり昨日の空が青かったので、久し振りに、古里が恋しく、私は無理矢理に汽車に乗ってしまった。そうして今朝はもう鳴門《なると》の沖なのだ。
「お客さん! 御飯ぞなッ!」
 誰もいない夜明けのデッキの上に、ささけた私の空想はやっぱり古里へ背いて都へ走っている。旅の古里ゆえ、別に錦を飾って帰る必要もないのだけれども、なぜか侘しい気持ちがいっぱいだった。穴倉のように暗い三等船室に帰って、自分の毛布の上に坐っていると丹塗《にぬ》りのはげた膳の上にはヒジキの煮たのや味噌汁があじきなく並んでいた。薄暗い燈火の下には大勢の旅役者やおへんろ[#「おへんろ」に傍点]さんや、子供を連れた漁師の上さんの中に混って、私も何だか愁々として旅心を感じている。私が銀杏返しに結っているので、「どこからおいでました?」と尋ねるお婆さんもあれば「どこまで行きゃはりますウ?」と問う若い男もあった。二ツ位の赤ん坊に添い寝をしていた若い母親が、小さい声で旅の古里でかつて聞いた事のある子守唄をうたっていた。

[#ここから2字下げ]
ねんねころ市
おやすみなんしょ
朝もとうからおきなされ
よいの浜風ア身にしみますで
夜サは早よからおやすみよ。
[#ここで字下げ終わり]

 あの濁った都会の片隅で疲れて
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