ろ、陽にあたって青葉の音が色が雨のように薫じているところ、槐多ではないけれど、狂人のように、一人居の住居が恋しくなりました。
十方|空《むな》しく御座候だ。暗いので、私は只じっと眼をとじているなり。
「オイ! ゆみちゃんはどこへ行ったんだい?」
階下でお上さんが呼んでいる。
「ゆみちゃん居るの? お上さんが呼んでてよ。」
「歯が痛いから寝てるって云って下さい。」
八重ちゃんが乱暴に階下へ降りて行くと、漠々とした当のない痛い気持ちが、いっそ死んでしもうたなら[#「いっそ死んでしもうたなら」に傍点]と唄い出したくなっている。メフィストフェレスがそろそろ踊り出して来たぞ! 昔おえらいルナチャルスキイとなん申します方が、――生活とは何ぞや? 生ける有機体とは何ぞや? と云っている。ルナチャルスキイならずとも、生活とは何ぞや? 生ける有機体とは何ぞやである。落ちたるマグダラのマリヤよ、自己保存の能力を叩きこわしてしまうのだ。私は頭の下に両手を入れると、死ぬる空想をしていた。毒薬を呑む空想をした。「お女郎を買いに行くより、お前が好きになった。」何と人生とはくだらなく[#「くだらなく」に傍点]朗かである事だろう。どうせ故郷もない私、だが一人の母のことを考えると切なくなって来る。泥棒になってしまおうかしら、女馬賊になってしまおうかしら……。別れた男の顔が、熱い瞼《まぶた》に押して来る。
「オイ! ゆみちゃん、ひとが足りない事はよく知ってんだろう、少々位は我慢して階下へ降りて働いておくれよ。」
お上さんが、声を尖《とが》らせて梯子《はしご》段を上って来た。ああ何もかも一切合財が煙だ砂だ泥だ。私はエプロンの紐《ひも》を締めなおすと、陽気に唄を唄いながら、海底のような階下の雑沓《ざっとう》の中へ降りて行った。
(七月×日)
朝から雨なり。
造ったばかりのコートを貸してやった女は、とうとう帰って来なかった。一夜の足留りと、コートを借りて、蛾《が》のように女は他の足留りへ行ってしまった。
「あんたは人がいいのよ、昔から人を見れば泥棒と思えって言葉があるじゃないの。」
八重ちゃんが白いくるぶしを掻《か》きながら私を嘲笑《あざわら》っている。
「ヘエ! そんな言葉があったのかね。じゃ私も八重ちゃんの洋傘でも盗んで逃げて行こうかしら。」
私がこんなことを云うと、寝ころんでいた由ち
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