に載っている本野夫人の住所を切り抜いて麻布《あざぶ》のそのお邸へ出掛けて行ってみた。
折目がついていても浴衣は浴衣なのだ。私は浴衣を着て、空想で胸をいっぱいふくらませて歩いている。
「パンをおつくりになる、あの林さんでいらっしゃいましょうか?」
女中さんがそんな事を私にきいた。どういたしまして、パンを戴きに上りました林ですと心につぶやきながら、
「一寸《ちょっと》お目にかかりたいと思いまして……」と云ってみる。
「そうですか、今愛国婦人会の方へ行っていらっしゃいますけれど、すぐお帰りですから。」
女中さんに案内をされて、六角のように突き出た窓ぎわのソファに私は腰をかけて、美しい幽雅な庭に見いっていた。青いカーテンを透かして、風までがすずやかにふくらんではいって来る。
「どう云う御用で……」
やがてずんぐりした夫人は、蝉《せみ》のように薄い黒羽織を着て応接間にはいって来た。
「あのお先きにお風呂をお召しになりませんか……」
女中が夫人にたずねている。私は不良少女だと云う事が厭《いや》になってきて、夫が肺病で困っていますから少し不良少年少女をお助けになるおあまりを戴きたいと云ってみた。
「新聞で何か書いたようでしたが、ほんのそう云う事業に手助けをしているきりで、お困りのようでしたら、九段の婦人会の方へでもいらっして、仕事をなさってはいかがですか……」
私は程よく埃《ほこり》のように外に出されてしまったけれど、――彼女が眉をさかだててなぜあの様な者を上へ上げましたと、いまごろは女中を叱っているであろう事をおもい浮べて、ツバキをひっかけてやりたいような気持ちだった。ヘエー何が慈善だよ、何が公共事業だよだ。夕方になると、朝から何も食べていない二人は、暗い部屋にうずくまって当《あて》のない原稿を書いた。
「ねえ、洋食を食べない?」
「ヘエ?」
「カレーライス、カツライス、それともビフテキ?」
「金があるのかい?」
「うん、だって背に腹はかえられないでしょう、だから晩に洋食を取れば、明日の朝までは金を取りにこないでしょう。」
洋食をとって、初めて肉の匂いをかぎ、ずるずるした油をなめていると、めまいがしそうに嬉しくなってくる。一口位は残しておかなくちゃ変よ。腹が少し豊かになると、生きかえったように私達は私達の思想に青い芽を萌《も》やす。全く鼠も出ない有様なのだから仕
前へ
次へ
全266ページ中42ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング