何もない。何も考える必要はない。私はつと立って神前に額ずくと、そのまま下駄をはいて表へ出てしまった。パン屑《くず》が虫歯の洞穴の中で、ドンドンむれていってもいい。只口に味覚があればいいのだ。――家の前へ行くと、あの男と同じように固く玄関は口をつぐんでいる。私は壺井さんの家へ行くと、ゆっくりと足を投げ出してそこへ寝かしてもらった。
「お宅に少しばかりお米はありませんか?」
人のいい壺井さんの細君も、自分達の生活にへこたれてしまっているのか、私のそばに横になると、一握の米を茶碗に入れたのを持ってきて、生きる事が厭《いや》になってしまったわと云う話におちてしまっている。
「たい子さんとこは、信州から米が来たって云っていたから、あそこへ行って見ましょうか。」
「そりゃあ、ええなあ……」
そばにいた伝治さんの細君は、両手を打って子供のように喜んでいる。ほんとうに素直な人だ。
(六月×日)
久し振りに東京へ出て行った。新潮社で加藤武雄さんに会う。文章|倶楽部《クラブ》の詩の稿料を六円戴く。いつも目をつぶって通る神楽坂《かぐらざか》も、今日は素敵に楽しい街になって、店の一ツ一ツを私は愉しみに覗いて通った。
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隣人とか
肉親とか
恋人とか
それが何であろう
生活の中の食うと云う事が満足でなかったら
描いた愛らしい花はしぼんでしまう
快活に働きたいと思っても
悪口雑言の中に
私はいじらしい程小さくしゃがんでいる。
両手を高くさしあげてもみるが
こんなにも可愛い女を裏切って行く人間ばかりなのか
いつまでも人形を抱いて沈黙《だま》っている私ではない
お腹がすいても
職がなくっても
ウオオ! と叫んではならないのですよ
幸福な方が眉をおひそめになる。
血をふいて悶死《もんし》したって
ビクともする大地ではないのです
陳列箱に
ふかしたてのパンがあるけれど
私の知らない世間は何とまあ
ピヤノのように軽やかに美しいのでしょう。
そこで初めて
神様コンチクショウと呶鳴りたくなります。
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長いあいだ電車にゆられていると、私は又何の慰めもない家へ帰らなければならないのがつまらなくなってきた。詩を書く事がたった一つのよき慰めなり。夜、飯田さんとたい子さんが唄いながら遊びに見えた。
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俺んとこの
あの美しい
ケッコ
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