っても、「馬鹿だねえ」と云う一言ですむではありませんか。私は自分の淋しい影を見ていると、小学生時代に、自分の影を見ては空を見ると、その影が、空にもうつっていたあの不思議な世界のあった頃を思い出してくるのだ。青くて高い空を私はいつまでも見上げていた。子供のように涙が湧《わ》きあふれて来て、私は地べたへしゃがんでしまうと、カイロの水売りのような郷愁の唄をうたいたくなった。
ああ全世界はお父さんとお母さんでいっぱいなのだ。お父さんとお母さんの愛情が、唯一のものであると云う事を、私は生活にかまけて忘れておりました。白い前垂を掛けたまま、竹藪や、小川や洋館の横を通って、だらだらと丘を降りると、蒸汽船のような工場の音がしていた。ああ尾道《おのみち》の海! 私は海近いような錯覚をおこして、子供のように丘をかけ降りて行った。そこは交番の横の工場のモーターが唸《うな》っているきりで、がらんとした原っぱだった。三宿《みしゅく》の停留場に、しばらく私は電車に乗る人か何かのように立ってはいたけれど、お腹《なか》がすいてめがまいそうだった。
「貴女! 随分さっきから立っていらっしゃいますが、何か心配ごとでもあるのではありませんか。」
今さきから、じろじろ私を見ていた二人の老婆が、馴々しく近よって来ると私の身体《からだ》をじろじろ眺めている。笑いながら涙をふりほどいている私を連れて、この親切なお婆さんは、ゆるゆる歩きだしながら信仰の強さで足の曲った人が歩けるようになったことだとか、悩みある人が、神の子として、元気に生活に楽しさを感じるようになったとか、色々と天理教の話をしてくれるのであった。
川添いのその天理教の本部は、いかにも涼しそうに庭に水が打ってあって、楓《かえで》の青葉が、爽かに塀《へい》の外にふきこぼれていた。二人の婆さんは広い神前に額《ぬか》ずくと、やがて両手を拡げて、異様な踊を始めだした。
「お国はどちらでいらっしゃいますか?」
白い着物を着た中年の神主が、私にアンパンと茶をすすめながら、私の侘しい姿を見てたずねた。
「別に国と云って定まったところはありませんけれど、原籍は鹿児島県東桜島です。」
「ホウ……随分遠いんですなあ……」
私はもうたまらなくなって、うまそうなアンパンを一つ摘《つま》んで食べた。一口|噛《か》むと案外固くって粉がボロボロ膝にこぼれ落ちている。――
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