日)
 前の屍室《ししつ》には、今夜は青い灯がついている。又兵隊が一人死んだのだろう。青い窓の灯を横ぎって通夜をする兵隊の影が二ツぼんやりうつっている。
「あら! 螢《ほたる》が飛んどる。」
 井戸端で黒島|伝治《でんじ》さんの細君がぼんやり空を見上げていた。
「ほんとう?」
 寝そべっていた私も縁端に出てみたけれど、もう螢も何も見えなかった。
 夜。隣の壺井夫婦、黒島夫婦遊びに見える。
 壺井さん曰《いわ》く。
「今日はとても面白かったよ。黒島君と二人で市場へ盥《たらい》を買いに行ったら、金も払わないのに、三円いくらのつり[#「つり」に傍点]銭と盥をくれて一寸ドキッとしたぜ。」
「まあ! それはうらやましい、たしか、クヌウト・ハムスンの『飢え』と云う小説の中にも蝋燭《ろうそく》を買いに行って、五クローネルのつり銭と蝋燭をただでもらって来るところがありましたね。」
 私も夫も、壺井さんの話は一寸うらやましかった。――泥沼に浮いた船のように、何と淋しい私達の長屋だろう。兵営の屍室と墓地と病院と、安カフエーに囲まれたこの太子堂の暗い家もあきあきしてしまった。
「時に、明日はたけのこ飯にしないかね。」
「たけのこ盗みに行くか……」
 三人の男たちは路の向うの竹藪《たけやぶ》を背戸に持っている、床屋の二階の飯田さんをさそって、裏の丘へたけのこを盗みに出掛けて行った。女達は久しぶりに街の灯を見たかったけれども、あきらめて太子堂の縁日を歩いてみた。竹藪の小路に出した露店のカンテラの灯が噴水のように薫じていた。

(六月×日)
 美しい透きとおった空なので、丘の上の緑を見たいと云って、久し振りに貧しい私達は散歩に出る話をした。鍵《かぎ》を締めて、一足おそく出て行ってみると、どっちへ行ったものか、夫の蔭はその辺に見えなかった。焦々して陽照りのはげしい丘の路を行ったり来たりしてみたけれど随分おかしな話である。待ちぼけを食ったと怒ってしまった夫は、私の背をはげしく突き飛ばすと閉ざした家へはいってしまった。又おこっている。私は泥棒猫のように台所から部屋へはいると、夫はいきなり束子《たわし》や茶碗を私の胸に投げつけて来た。ああ、この剽軽《ひょうきん》な粗忽《そこつ》者をそんなにも貴方は憎いと云うのですか……私は井戸端に立って蒼《あお》い雲を見ていた。右へ行く路が、左へまちがっていたからと云
前へ 次へ
全266ページ中38ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング