は召集《しょうしゅう》令状を出して見せた。
「本当に何か人違いでしょう? 僕はこの月末はこうして、三週間兵隊に行くンですがね」
他の二ツの部屋を調べた紳士諸君も呆んやりした顔で、
「オイ、どうも人違いらしいぜ」
「そんな事はない。この男だよ、僕は確証を得ているンだ」
「そうかねえ、でもちょっとおかしいよ君、――君、この与一は雅号《がごう》ではないだろうね。本名は小松世市、こう書くンだろう」
「だから、召集令状を見たらいいでしょう」
一枚の小さな召集令状が、あっちこっちの紳士諸君の手に渡った。
「不思議だねえ、もいちど探しなおしだ。ところで、他《ほか》に客は無いだろうね」
枳の門の外には、白い小型の自動車が待っていた。仕入れに行く魚屋や、新聞配達等が覗いている。
「チェッ、何のために月給|貰《もら》っているンだ。おいッ! 加奈代《かなよ》、塩を撒《ま》いてやれ」
「だって、塩がないのよ」
「塩が無かったら泥《どろ》だっていいじゃないかッ、泥が無かったら、石油でもブッかけろ」
「こんなに家中無断で引掻《ひっか》きまわして、済みませんなンて云わないッ」
「云うもンか……あンなのを見ると、食えないで焦々《いらいら》しているところだ、赤くなりたくもなるさ」
「小さい頃、私の義父《とう》さんも、路傍に店を出して、よく巡査《じゅんさ》にビンタ殴られていたけれど――全く、これより以上私達にどうしろって云うのかしら?」
十
上野の博覧会の仕事もあと二三日で終ると云う夕方、与一は頭中を繃帯《ほうたい》で巻いて帰って来た。
「八方|塞《ふさが》りかね。オイー! 暑いせいか焦々して喧嘩《けんか》しちまったよ」
「誰とさア」
「なまじっか油絵の具を捏《こ》ねた者は、変な気障《きざ》さがあって困るって、ペンキ屋同士が云ってるだろう、だから、僕の事なンですか、僕の事なら僕へはっきり[#「はっきり」に傍点]云って下さいって、云ってやったンだ。するとね、ああちんぴら絵描きは骨が折れるって云ったから、何をお高く止ってるンだ馬鹿|野郎《やろう》、ピンハネをしてやがってと呶鳴ってやったら、いきなりコップを額にぶっつけたンだ」
「マア、まるで土工みたいね、痛い?」
「硝子がはいったけど大丈夫《だいじょうぶ》だろう」
バンド代りに締めた三尺帯の中から、与一は十三日分の給料を出していった。
「日当弐円五拾銭だちって、こうなると、五拾銭引いてやがる。おまけに、会場の方は俺達の分を四円位にしといてピンを刎《は》ねるンだから、やりきれないさ」
それでも、参拾円近い現金は、ちょっと胸がドキリとするように嬉《うれ》しかった。
「でも、故意に喧嘩して、止《や》めさせるンじゃないの?」
「そうでもないだろうが、皆《みな》不平を云いながら、前へ出るとペコペコしてるンだからね」
「そンなものよ」
久《ひさ》し振《ぶ》りに石油を一升買った。
灰色の石油コンロは、円《まる》い飛行機のような音をたてて威勢《いせい》よく鳴っている。
二人は庭へ出て水を浴びた。
黝《あおぐろ》くなった躑躅の葉にザブザブ水を撒いてやりながら、何気なく与一の出発の日の事を考えていた。
「もう後六日で兵隊だねえ……」
「ああ」
「留守《るす》はどうしよう」
「参拾円近くあるじゃないか、俺の旅費や小遣《こづか》いは五円もあればいいし、家賃は拾円もやっとけば、残金で細々食えないかい?」
「そうだね」
気合術診療所から貰って来たトマトの苗が、やっと三ツばかり黄色い花を咲かせていた。あの花が落ちて、赤い実が熟する頃は帰って来るのだろう。――私一人で何もしない生活の不安さや、醤油飯の弁当を持って海兵団へ仕事に行っていた義父が、トロッコで流されたという故郷からの手紙を見て、妙に暗く私はとらわれて行った。
唐津出来《からつでき》の茶碗《ちゃわん》や、皿《さら》や丼《どんぶり》などを、蓙《ござ》を敷いて、「どいつもこいつも、茶碗で飯を食わねンだな、ホラ唐津出来の茶碗だ。五ツで二分と負けとこウ、これでも驚かなきゃ、ドンと三|貫《かん》、ええッこの娘もそえもンで、弐拾五銭、いい娘だぜ、髪が赤くて鼻たらし娘だ!」
私は、長崎《ながさき》の石畳の多い旧波止場で、義父が支那人の繻子《しゅす》売りなんかと、店を並べて肩肌《かたはだ》抜いで唐津の糶《せり》売りしているのを思い出した。黄色いちゃんぽん[#「ちゃんぽん」に傍点]うどんの一|杯《ぱい》を親子で分けあった長い生活、それも、道路|妨害《ぼうがい》とかで止《や》めさせられると、荷車を牽《ひ》いて北九州の田舎をまわった義父の真黒に疲れた姿、――私は東京へ出た四年の間に、もう弐拾円ばかりも、この貧しい両親から送金を受けている。
結局、義父たちが佐世保に落ちついてもう一年になるけれど、海兵団のトロ押しが、とうとう義父の働く最後であったのかも知れない。
暗雲《やみくも》にヒッパクした故郷からの手紙だ。
[#ここから2字下げ]
――それで、おまえが、なんとかなれば七円ほど、くめんをして、しきゅう、たのむ、おとっさんも、いたか、いたか、きってくれ、いいよんなはる。せきたんさんで、あらいよっとじゃが、びょういんにいったほうが、よかあんばいのごとある。
[#ここで字下げ終わり]
私は夕飯の済んだ後、与一に故郷からの手紙を見せようと思った。与一は何か考えているのであろう、何となく淋しそうに窓に凭れて唄をうたっていた。その唄の節はひどく秋めいた、憂愁《ゆうしゅう》のこもったものであった。私は何度となく熱い茶を啜《すす》りながら、手紙を出す機会を狙《ねら》っていたが、与一はいつまでもその淋し気な唄を止めなかった。
十一
沈黙《だま》って故郷へは送金しよう、――私はそう思って毎日与一の額の繃帯を巻いてやった。
「ちょっとした怪我《けが》でも痛いンだから、これで腕《うで》や脚《あし》を切断するとなると、どんなでしょう?」
「それはもう人生の終りだよ、俺だったら自殺する」
「働かないとなると、生きていても仕様がないからね……」
与一が、山の聯隊《れんたい》へ出発した日は、空気が灰色になるほど風が激しかった。「まるで春のようだ、気持ちの悪い風だ」誰もそういいながら停車場に集った。
「石油コンロは消してあったかい?」
与一は、こんな事でもいうより仕方がないといった風に、私の顔を見て笑った。
奉公袋《ほうこうぶくろ》を提げて下駄《げた》をはいた姿は、まるで新聞屋の集金係りのようで、私はクックッと笑い出して、「火事になった方がいいわ」と、言葉を誤魔化した。
「一人で淋しかったら、診療所の娘でも来てもらうといい」
「大丈夫ですよ、一人の方が気楽でいいから……」
与一に対して、何となく肉親のような愛情が湧《わ》いた。かつての二人の男に感じなかった甘《あま》さが、妙に私を泪もろくして、私は固く二重|顎《あご》を結んで下を向いた。
「厭ンなっちゃう、まったく……」
私は甘いものの好きな与一のために、五銭のキャラメルと、バナナの房《ふさ》を新聞に包んで持たせてやった。
「どうせ今晩は宿屋へでも泊《とま》るンでしょう?」
「知った家はないし、どうせ兵営の傍の木賃泊りだ」
「召集されて随分|悲惨《ひさん》な家もあるンでしょうね」
「ああ百姓《ひゃくしょう》なんか収穫時《しゅうかくどき》だ、実際困るだろう」
海水浴場案内のビラが、いまは寒気にビラビラしていて、駅の前を行く女達の薄着の裾《すそ》が帆《ほ》のようにふくれ上っていた。
拡声機は発車を知らせている。
「元気でいるンだよ」
長いホームを歩いている間中、与一は同じ事を何度も繰《く》り返した。私は、そんな優しい言葉をかけられると、妙に胸が詰った。で、いかにも間抜けた女らしく見せるべく、私は頬《ほ》っぺたをふくらまして微笑《ほほえ》んでみせた。頬《ほお》をふくらましていると、眼の内が痛い。私はじっと脣をつぼめて、与一が窓から覗くのを待った。
山へ行く汽車は煤《すす》けたままで、バタバタ瞼のように窓を開けた。窓が開くと、たくさんの見送りが、蟻のように窓に寄った。与一は網棚《あみだな》の上に帽子《ぼうし》と新聞包みを高く差し上げている。咽喉仏《のどぼとけ》が大きく尖《とが》って見えた。その逞《たくま》しい首を見ていると、耐えていた泪が鼻の裏にしみて、私は遠い時計の方を白々と見るより仕方がなかった。
「おいッ!」
与一はもうキャラメルを一ツむいて、頬ばったらしく、口をもぐもぐさせて私を呼んだ。
「何?」
「キャラメル一ツやろう」
誰も私達の方を向いてはいなかった。与一の座席は洗面所と背中合せなので気楽に足を投げ出して行けるだろう。与一は思い出したように指を折って、「三七、二十一日もかかるンかね」一人で呟《つぶや》いてうんざりしたかの風であった。
「誰も見てくれるもンが無いンだから、病気をせんように、気をつけるンだぞ」
私は汽車が早く出てくれるといいと念じた。焦々した五分間であった。その辛《つら》い気持ちをお互《たが》いにざっくばらんにいえないだけに、余計焦々して私はピントを合せるのに、微笑の顔が歪《ゆが》みそうであった。
十二
一人になったせいであろう。昼間でも台所の部屋などは、ゴソゴソと穴蔵|蛩《こおろぎ》が幾つも飛んでいた。与一が出発して九日になる。山から来た最初の絵葉書には、汽車が着いて、谷間の町の中を、しかも、夜更けて宿を探すに厭な思いをしたと書いてあった。
第二番目の葉書には、松本市五〇聯隊留守隊、第二中隊召集兵、小松与一|宛《あて》と住所が通知してあった。
三番目の絵葉書は、高原の白樺《しらかば》が白く光って、大きい綿雲の浮《う》いた美しい写真であった。文面には、「今日は行軍で四里ばかり歩いた。田舎屋で葡萄《ぶどう》を食べて甘美《うま》かった。皆百姓は忙がしそうだ。歩いていると、呑気《のんき》なのは俺達ばかりのような気がして、何のために歩いているのか判らなくなって来る。こうしていても、気が気でないと云う男もいた。留守はうま[#「うま」に傍点]くやって行けそうか。知らせるがいい」こんな事が書いてあった。
私は徒爾《いたずら》な時間をつぶすために、与一の絵葉書や手紙を、何度となく読んでまぎらした。あの下駄はどう処分したであろうか、逞しい軍人靴をはいて、かえって、子供のように楽しんでいるかも知れない。出発の日の与一の侘《わび》しい姿を思うと、胸の中が焼けるように痛かった。
第四番目の手紙は、どうも俺は、始終お前に手紙を書いているようだ。お前は甘い奴と思うかも知れない。――遠く離《はな》れて食べる事に困らないと、君がどんな風に食べているンだろうと云う事が案ぜられるのだ。まだ一度も君から手紙を貰っていない。君もこれから生活にチツジョを立てて、本当に落ちついたらいいだろう。落ちつくと云う事は、ブルジョアの細君の真似《まね》をしろと云うのではない。俺と君の生活に処する力を貯《たくわ》える事さ。金のある奴達は酒保へ行く。無いものは班にいて、淋しくなると出鱈目に唄をうたう。唄をうたう奴達は、収穫を前にして焦々しているのだろう。俺の隣りのベッドに舶大工《ふなだいく》がいる、子供三人に女房《にょうぼう》を置いて来たと云って、一週間目に貰った壱円足らずの金を送ってやっていた。そんなものもあるのだ。マア元気でやってくれるように、小鳥が飼《か》ってあるとか、花でも植えてあるならその後成長はどんな風かとでも聞けるが、そこには君自身の外に、何も無いンだからね。――元気で頼《たの》む」
かつて知らなかった男の杳々《ようよう》とした思いが、どんなに私を涙《なみだ》っぽく愛《かな》しくした事であろう。
私は手鏡へ顔を写してみたりした。「お前も流浪《るろう》の性じゃ」と母がよく云い云いしたけれど、二十三と云うのに、ひどく老《ふ》け込んで、脣などは荒《す》さんで見えた。瞼には深い影がさして、
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