びこっていて、敷居《しきい》の根元は蟻《あり》の巣《す》でぼろぼろに朽《く》ちていた。
「済みませんねえ。疲《つか》れていなかったら台所へ棚《たな》を一ツ吊《つる》して下さい」
「棚なんか明日にして飯にでもしないか」
「ええだけど何も棚らしいものがないから、どうにも取りつき場がないわ」
「眼が舞《ま》いそうだ。飯にしよう」
与一が後ろ鉢巻《はちま》きを取りながら、台所へ炭箱を提《さ》げて来た。
鮭が二切れで米が無い。
それで、与一が隣りの部屋に去ると、私は暗がりの中に、割りそこなった鯉の地獄壺を尻尾の方から石でもってコツンコツンと割ってみた。
脆《もろ》い土屑《つちくず》がボロボロ前掛けの上に壊《こわ》れて、膝《ひざ》の上に溢《あふ》れた銅貨は、かなりズシリと重みがあった。どれを見ても銅貨のようだ。私は一ツ一ツ五拾銭銀貨が一枚ぐらい混《ま》ざっていはしないかと、膝の上にこぼれた銭の縁を指で引掻いて見た。
銅貨がちょうど二十枚で、拾銭の穴明き銭と五拾銭銀貨が一枚ずつ、私の胸はしばらくは子供のように動悸《どうき》が激しかった。
抜《ぬ》き替えたこの一銭銅貨がみんな五拾銭銀貨であったならば、拾円以上にもなっているであろう――私は笊《ざる》を持つと、暗がりの多い町へ出て行った。
軒《のき》の低い町並みではあるけれど、割合と色々な商い店が揃《そろ》っていて、荷箱のように小さい、鳩《はと》と云う酒場などは、銀座を唄ったレコードなんかを掛けていたりした。
その町の中ほどには川があった。白い橋が架《かか》っている。その橋の向うは、郊外《こうがい》らしい安料理屋が軒を並べていて、法華寺《ほっけじ》があると云う事であった。
私は米を一|升《しょう》ほどと、野菜屋では、玉葱《たまねぎ》に山東菜《さんとうな》を少しばかり求めて、猫《ねこ》の子でも隠《かく》しているかのように前掛けでくるりと巻くと、何度となく味わったこれだけあれば明日いっぱいはと云う心安さや、またそんな事をいつまでも味わって暮さなければならなかった度々の男との記憶――いっそ、どこかに突き当って血でも吹き上げたならば、額でも割って骨を打ち砕《くだ》いたならば、進んで行く道も判然とするであろう。仕事をするためにか、食べるためにか、どんなために人間は生きているのであろうか、私は毎日が一時|凌《しの》ぎばかりであるのが、だんだん苦痛になって来ていた。
手探りで枳《からたち》の門を潜ると、家の中は真暗で、台所の三和土《たたき》の上には、七輪の炭火だけが目玉のように明るく燃えていた。
「どこへ行っていたんだ?」
「私、ねえ……お米が無かったから、通りへ行っていたのよ」
「米を買いに? なぜそう早く云わないんだ。もう動けないよッ」
与一は大の字にでも寝ているらしく、そういいながら、転々と畳をころがっているようなけはいがしている。
「早くそう云うつもりで云いそびれたのよ、……すぐ焚《た》けるからねえ」
「うん、――あのね、何も遠慮する事はないんだよ。金が無かったら無いようにハッキリ云いたまえ。ハッキリと云えばいいンだ。……俺は明日上野の博覧会にでも廻ってみよう。ペンキ屋の仕事のこぼれが少しはあるだろうと思うンだ。働かないで絵を描いて行こうなんて虫が良すぎる。そうだよ! 芸術だの、絵だのって、個人の慰みもンだアね、俺なんかペンキで夏のパノラマでも描いて、田舎の爺《じい》さん婆《ばあ》さんに見てもらった方が相当なンかも知れないよ、それが似合っているんだ」
「あなた、私を叱っているんですか?」
「叱って。叱ってなんかいないよ、だから厭《いや》なんだ、君はひねくれ[#「ひねくれ」に傍点]ない方がいい。――僕が君に云ったのは貧乏人はあんまり物事をアイマイにするもンじゃないと云う事だ。遠慮なんか蹴飛ばしてハッキリと、誰にだって要求すればいいじゃないかッ! ヒクツな考えは自分を堕落《だらく》させるからね」
米を洗っていると泪が溢れた。
卑屈《ひくつ》になるなと云った男の言葉がどしん[#「どしん」に傍点]と胸にこたえてきて、いままでの貞女《ていじょ》のような私の虚勢《きょせい》が、ガラガラと惨《みじ》めに壊れて行った。
与一はあらゆるものへ絶望を感じている今の状態から自分を引きずり上げるかのような、まるで、笞のようにピシピシした声で叫《さけ》んだ。
「今時、溺《おぼ》れるものが無ければ生きて行けないなんて、ゼイタクな気持ちは清算しなければいけないんだ。全く食えないんだから……」
「食わなくったって、溺れていた方がいいじゃないの……」
「君はいったい何日位飢える修養が積ンであるのかね、まさか一年も続くまい」
八
清朗な日が続いた。
井戸端《いどばた》に植えておいた三ツ葉の根から、薄い小米のような白い花が咲いた。
壁のモジリアニも、ユトリオもディフィも、おそろしく退屈な色に褪《さ》めてしまって、私は、与一が毎朝出掛けて行くと、一日中呆んやり庭で暮らした。
人気のない部屋の空気と云うものはいつも坐《すわ》っている肩の上から人の手のように重くのしかかって来る。まして家具もなく、壁の多い部屋の中は、昼間でも退屈で淋しい。
青い空だ。
白米のような三ツ葉の花が、ぬるく揺《ゆ》れている。
「小母《おば》さんはどうして帯をしないのウ」
蛙の唄をうたった小里氏の男の子が、こまっしゃくれた首の曲げ方をして、私の腰のあたりを不思議そうに見ている。
「小母さんは帯をすると、頭が痛くなるからねえ」
「フン、――僕のお父《とう》ちゃんも頭が痛いの」
私は、青と黄で捻《ひね》ったしで[#「しで」に傍点]紐《ひも》で前を合わせていた。――ああ、疲れた紅《あか》いメリンスの帯はもうあの朝鮮人の屑屋の手から、どこかの子守女へでも渡っている事だろう。帯を売って五日目だ。もう今朝《けさ》は上野へ行く電車賃もないので、与一は栗色《くりいろ》の自分の靴《くつ》をさげて例の朴のところへ売りに行った。
「何ほどって?」
「六拾銭で買ってくれたよ」
「そう、朴君はあの靴に四ツも穴が明いているのを知っていたんでしょうか?」
「どうせ屋敷めぐりで、穴|埋《う》めさ、味噌汁《みそしる》吸って行けってたから呑《の》んで来た」
「美味《うま》かった?」
「ああとても美味かったよ……弐拾銭置いとくから、何か食べるといい」
私は今朝から弐拾銭を握《にぎ》ったまま呆んやり庭に立っていたのだ。松の梢では、初めて蝉《せみ》がしんしんと鳴き出したし、何もかもが眼に痛いような緑だ。
唾を呑み込もうとすると、舌の上が妙に熱っぽく荒れている。何か食べたい。――赤飯に支那蕎麦、大福餅《だいふくもち》にうどん、そんな拾銭で食べられそうなものを楽しみに空想して、私は二枚の拾銭白銅をチリンと耳もとで鳴らしてみた。
しんしんと蝉は鳴いている。
透《す》けた松の植込みの向うを裸馬《はだかうま》が何|匹《びき》も曳《ひ》かれて通る。
「良いお天気で……」
屑屋の朴が秤《はかり》でトントン首筋を叩きながら、枳の門の戸を蹴飛ばして這入って来た。
「朴さん、あの靴、穴が明いていたでしょうに……」
「よろしいよ。どうせ屋敷で儲《もう》けるからねえ」
「助かりましたわ」
「よろしいよ。小松さんは帰りは遅《おそ》いですか?」
「ええいつも夜になってから……」
「大変ですな。――ところで、石油コンロ買いませんか、金は三度位でよろしいよ」
「ええ……どの位ですウ」
「九拾銭でよろしいよ。元々、便利ですよ」
朴は冷々と気持ちがいいのであろう、玄関の長い廊下に寝そべって、私が石油コンロを鳴らしている手附《てつき》を見ていた。大分、錆附《さびつ》いてはいたけれど、灰色のエナメルが塗ってあって妙に古風だ。心《しん》に火をつけると、ヴウ……と、まるで下降している飛行機の唸《うな》りのような音を立てる。
「石油そんなに要《い》りません。一|鑵《かん》三月《みつき》もある。私の家もそう」
石油コンロを置いて朴が帰ると私はその灰色の石油コンロを、台所の部屋の窓ぎわに置いて眺めた。家具と云うものは、どうしてこんなに、人間を慰めてくれるのだろう。
夕方井戸端で、うどんを茹《ゆ》でた汁を捨てていると、小里氏の子供が走って来て空を見上げた。
「ねえ、小母さん! 飛行機が飛んでらア」
「どこに?」
「ホラ、音がするだろう……」
私は、空を見上げている子供の頭を撫《な》でていった。
「小母さんところの石油コンロが唸っているのよ、明日お出《い》で、見せて上げるから……」
そういって聞かせても、子供は、(炭や薪《まき》で煮焚《にた》きしているのであろう、小里氏の屋根の煙を私は毎日見ている)不思議そうに薄暗い空を見上げて、「飛行機じゃないの」といっていた。
九
与一は日記をつけることがこまめ[#「こまめ」に傍点]であった。私であったら、馬鹿らしく、なにも書かないでいるだろう、そんな無為《むい》に暮れた日でも、雨だの、晴れだの与一は事務のようにかき込んでいた。
雨だの晴れだのが毎日続くと、与一自身もやりきれなくなってしまうのか、ついには「蚊帳《かや》が欲しい」とか「我もし王者なりせば[#「我もし王者なりせば」に傍点]と云う広告を街で見る」そんな事などが書き込まれるようになった。
だが飢える日が鎖《くさり》のように続いた。もうこまめ[#「こまめ」に傍点]な与一も日記をほうりっぱなしにして薄く埃をためておく事が多くなった。
そうして、日記の白いままに八月に入ったある朝、――跌《つま》ずいた夢でも見たのであろう、私は眼が覚《さ》めると、私はいつものように壁に射《さ》した影《かげ》を見ていた。浅黄色の美しい夜明けだ。光線がまだ窓の入口にも射していない。
その時、私は新しげな靴の音を耳にした。「まだ五時位なのに誰だろう」そんな事を考えながら、襖《ふすま》を押《お》して庭の透けて見える硝子戸を覗《のぞ》くと、大きな赭《あか》ら顔の男が何気なく私の眼を見て笑った。背筋の上に何か冷いものが流れた気持ちであったが、私も笑ってみせた。
「小松君起きてるウ?」
「随分早いんですね、ただ今起します」
朝の光線のせいか、何もかも新しいものをつけている紳士《しんし》が、このように早く与一を尋ねて来ると云う事は、よっぽど親しい、遠い地からの友人であろうと、私は忙がしく与一を揺り起した。
「そんな友人無いがね、小松って云ったア?」
「ええ、起きているかって笑って云っているのよ」
「変だなア」
与一が着物を着ている間に、私は玄関の鍵《かぎ》を開けた。
すると、どうであろう、四五人の紳士達が手に手に靴を持ったまま、一本の長い廊下を、何か声高く叫びながら、三方に散って行った。驚いて寝室に逃げこむ私の後からも、二人の紳士が立ちはだかって叫んだ。
「君が小松与一[#「与一」は底本では「与一郎」]君かね?」
与一も面喰《めんくら》ったのだろう、脣《くちびる》を引きつらせてピクピクさせていた。
「ちょっと、署まで来てもらいたい」
「へえ、……いったい何ですウ、現行犯で立小便位なら覚えはあるンですが、原因は何んですウ」
「そんなに白っぱくれなくてもいいよ」
「君は小松与一だろう?」
「そうですよ。小松与一と云うペンキ屋で、目下上野の博覧会でもって東照宮の杉の木を日慣らし七八本は描いていますよ」
「フフン君が絵を描こうと描くまいと、そんな事はどうでもいいんだ、一応来てもらいたい」
「思想犯の方でですか?――僕は今ンところは臨時|雇《やと》いで、今日行かないと、また、外の奴《やつ》に取られッちまうんですがね」
「まあ、男らしく来て、一応いい開いたらいいだろう」
「何時間位かかるンですか? 長くかかるンじゃないンですか?」
落ちついたのか与一は脣を弛《ゆる》めて笑い出した。
「二十九日だなんて事になると厭だから、こんなもンでもお見せしましょう」
そういって押入れの中から、与一
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