、きっときつい目に会っていたと思うね」
 私は骨つきの方の鰺をしゃぶりながら風呂屋《ふろや》の煙突《えんとつ》を見ていた。「どんなに叱られていたか」何と云う乱暴な聞き方であろう、私は背筋が熱くなるような思いを耐《た》えて、与一の顔を見上げた。与一はくずぬいて箸《はし》を嘗《な》めていた。私は胃の中に酢《す》が詰《つま》ったように、――瞼《まぶた》が腫《は》れ上って来た。
「どうして、今更そんな事を云うの、私を苛《いじ》めてみようと思うンでしょう、――ねえ、どんなに貧乏しても苛めないで下《くだ》さいよ、殴らないでよね、これ以上私達豊かになろうなんて見当もつかないけれど、これ以上に食えなくなる日は、私達の上に度々あるでしょうし、でも、貧乏するからと云って、私の体を打擲しないで下さい。もしも、どうしても殴ると云うのンなら、私は……またあなたから離れなければならないもの、それに、私は今度殴られたら、グラグラした右の肋骨の一本は見事に折れて、私は働けなくなってしまうでしょう」
「ホウ……そんなに前の男は君を殴っていたのかね」
「ええこのボロカス女メと云ってね」
「道理で君はよく寝言《ねごと》を云っているよ。骨が飛ぶからカンニンしてッ、そう云って夢《ゆめ》にまで君は泣いているンだよ」
「だけど――けっして、別れた男が恋《こい》しくて泣いているんじゃないでしょう。あんまり苛められると、犬だって寝言にヒクヒク泣いているじゃありませんか」
「責めているわけじゃない。よっぽど辛《つら》かったのだろうと思ったからさ」

「この鰺はもう食べませんか」
「ああ」
 飯台が小さいためか、魚が非常に大きく見えた。頭から尻尾《しっぽ》まである魚を飯の菜にすると云う事は久しくない事なので、私は与一の食べ荒らしたのまで洗うように食べた。与一は皿《さら》の上に白く残った鰺の残骸《ざんがい》を見て驚いたように笑った。
「女と云う動物は、どうして魚が好きなのかね」
「男のひとは鱗《うろこ》が嫌《きら》いなンでしょう」
「鱗と云えば、お前が持って来た鯉《こい》の地獄壺を割ってみないかね、引越しの費用位はあるだろう」
「そうねえ、引越し賃位はね……でも八円のこの家から拾七円の家じゃア、随分《ずいぶん》と差があるし、それに、昨日《きのう》行って見たンだけれど、まるで狸《たぬき》でも出そうな家じゃありませんか」

前へ 次へ
全22ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング