「知った家はないし、どうせ兵営の傍の木賃泊りだ」
「召集されて随分|悲惨《ひさん》な家もあるンでしょうね」
「ああ百姓《ひゃくしょう》なんか収穫時《しゅうかくどき》だ、実際困るだろう」
 海水浴場案内のビラが、いまは寒気にビラビラしていて、駅の前を行く女達の薄着の裾《すそ》が帆《ほ》のようにふくれ上っていた。
 拡声機は発車を知らせている。
「元気でいるンだよ」
 長いホームを歩いている間中、与一は同じ事を何度も繰《く》り返した。私は、そんな優しい言葉をかけられると、妙に胸が詰った。で、いかにも間抜けた女らしく見せるべく、私は頬《ほ》っぺたをふくらまして微笑《ほほえ》んでみせた。頬《ほお》をふくらましていると、眼の内が痛い。私はじっと脣をつぼめて、与一が窓から覗くのを待った。
 山へ行く汽車は煤《すす》けたままで、バタバタ瞼のように窓を開けた。窓が開くと、たくさんの見送りが、蟻のように窓に寄った。与一は網棚《あみだな》の上に帽子《ぼうし》と新聞包みを高く差し上げている。咽喉仏《のどぼとけ》が大きく尖《とが》って見えた。その逞《たくま》しい首を見ていると、耐えていた泪が鼻の裏にしみて、私は遠い時計の方を白々と見るより仕方がなかった。
「おいッ!」
 与一はもうキャラメルを一ツむいて、頬ばったらしく、口をもぐもぐさせて私を呼んだ。
「何?」
「キャラメル一ツやろう」
 誰も私達の方を向いてはいなかった。与一の座席は洗面所と背中合せなので気楽に足を投げ出して行けるだろう。与一は思い出したように指を折って、「三七、二十一日もかかるンかね」一人で呟《つぶや》いてうんざりしたかの風であった。
「誰も見てくれるもンが無いンだから、病気をせんように、気をつけるンだぞ」
 私は汽車が早く出てくれるといいと念じた。焦々した五分間であった。その辛《つら》い気持ちをお互《たが》いにざっくばらんにいえないだけに、余計焦々して私はピントを合せるのに、微笑の顔が歪《ゆが》みそうであった。

     十二

 一人になったせいであろう。昼間でも台所の部屋などは、ゴソゴソと穴蔵|蛩《こおろぎ》が幾つも飛んでいた。与一が出発して九日になる。山から来た最初の絵葉書には、汽車が着いて、谷間の町の中を、しかも、夜更けて宿を探すに厭な思いをしたと書いてあった。
 第二番目の葉書には、松本市五〇聯隊留守隊、第
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