衣を擣つの声
秋風吹き尽くさず
総じて是れはこれ玉関の情なりき
何れの日にか胡虜を平げて
良人は遠征を罷めなん
谷村さんは、夏中愛読した唐詩選の中の、李白の詩を心よげに口ずさんで歩きました。
下宿から学校までは、五町あまりのものでありましたが、大変谷村さんには腹具合のいゝ散歩で、その学校までの道筋には、麻雀荘だの、安カフエー、古本屋、魚屋、床屋、玉突場なぞ何か安直な肩の張らない店が、煤けて並んでいました。
大変いゝお天気です。空には飛行機が、ブンブン唸つて、五色の広告をヒラヒラ撒いている様子でありました。
「あのウ、一寸おうかゞいいたしますけれど……」
街路樹の下を、詩をぎん[#「ぎん」に傍点]じて歩いていた谷村さんは、田舎の厨でよく聞くこほろぎ[#「こほろぎ」に傍点]の声のように凉し気な女の人の声を耳にして、ハッと立ち止まつて振り返りました。
「あのウ……六十一番地の清修館と云う下宿を御存じでいらつしやいませんでしようか?」
清修館、何か聞いたような……谷村さんは首筋を赤くして考えました。
女のひとは、長めな断髪で、手には大きな紅色の風呂敷包みを二ツもかゝえて
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