谷村さんはグッと押し上げる不快さを隠して、太つちよの下女がそろえてくれた靴に足をかけました。と、まだその下女は朝の髪に櫛を入れないのでありましよう、蓬々として、朝風に何日も洗わない臭い匂いをたゞよわせていました。谷村さんは何気なく胸に風呂敷包みをズリ上げてまるで夢でも見ているような気持ちで、ちよいと下女の髪の毛を一本抜いたのであります。
「アラ! まあ、御冗談を……」
 下女はさつと顔を赤らめて、両手で乳房を抱くと、キッキッと笑つて台所の方へ走つて隠れて行きました。
 谷村さんは抜いた一筋の毛を捨てもやらずに、持つたまゝ呆やり立つていましたが、丁度その時お上さんが帳場の方から出て来ました。
「あゝ、お早うございます。お序にこれをちよいと、名札掛けにかけて下さいませんですか、おつかいだてして済みません。――どうです、うまいもんでございましよう」
 黒塗りの板に朱で、「谷村三四郎」と書いてある札を持つて来て、お上さんは妙に笑つています。
 谷村さんはホッとして、その自分の名札を受取ると、そゝくさと、名札掛けにそれを掛けて下宿の石の段々をあわてゝ降りました。

 2 長安一片の月
 万戸
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