村さんは、寺の息子でありながら、医学の方を一生懸命勉強していたのであります。しかし外科の方が大変好きなのでありましたので部屋の本箱の上には、外科につかう色々なメスがまるで優勝カップのように並べてありました。
 谷村さんは、まず、御飯を頬ばつたまゝ、その長い髪の毛を小さく剪つて、顕微鏡でそつと覗いて見ました。かなり鉱物性の油がついています。鎖のような細胞が、芋虫のようにひつくり返つて、さながら「私は太つちよの下女の方でございますよ」と、云つているようでありました。
 谷村さんはムカムカする胸をおさえて、出がらしの冷い番茶をガブガブ呑み込むと、そゝくさと、帽子を被つて、広い廊下を歩いて玄関へ出ました。
 玄関では、丁度太つちよの下女が、谷村さんの靴を磨いていました。
 谷村さんは、昨日越して来た時に一人ずつにやつた五拾銭玉のきゝめであつたのであろうと思いましたが、蜆汁の中の長い髪の毛の事を思うと、ふと憂愁がこみ上げて来ました。
「お早うございます。昨夜はよくお休みになれましたか?」
「なぜ?」
「でも……初めて越して来た方は眠られないものだそうでございますよ」
「そうかね僕はよく寝られた」
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