若い妻君を脊負つて階下へ降りたものだと話してゐた。もんはきゝづらい思ひだつた。工藤はよつぽど、どうかしてゐるのではないかと思つた。いくら亡くなつてゐるとは云へ、自分の前で、何の遠慮もなくそんな話が出來るものだと思つた。あんまり莫迦にされてゐるやうなので、もんは「死んだひとにはかなひませんね」と云つた。外國の土地を踏んで來ると、こんなに自己本位な薄のろになつてしまふのかと、守一もしまひには默つてしまつた。いくらもんには甘えてゐるからと云つて、これではあんまり氣の毒だと、守一は怒つたやうな表情をしてゐた。工藤は二本のビールを飮むと、しよんぼりと歸へつて行つた。もんがあわてゝシヨールを肩にして工藤の後を追つて行つた。「そんなに醉つてゝ大丈夫ですか」もんが階段の下でよろよろしてゐる工藤の後から押すやうにして戸外へ出た。工藤は大丈夫ですよと云つた。「僕は、[#「「僕は、」は底本では「僕は、」]自分が君達に失禮だつた事もよく知つてゐます。知つてゐてどうにも話さなければ始末につかなかつたのです。わかりますか。もん女史もこれから元氣に暮し給へ、命さえあればまた逢へますよ。守一君にもよろしく。どうせ、守一君もそのうち出征して行くでせうが、もんさんも、あとに殘つて、お父さんを大切にして上げて下さい。僕は親不幸ばかりしてゐます。これから中野の友人のところへ行つて泊りますよ」もんは握手をしかけた工藤の手を離して、すぐ部屋へ戻つて行つた。守一がもんの寢床を敷いてゐた。「工藤君も變りましたね」「えゝ何だかとても淋しさうね。私の罰だなンて厭な事だけれど、でも、女のひとの愛情をあれだけ身に沁みて感じてゐるの、少しは判つていゝ氣味よ」守一は何の事だかわからなかつたけれど、いゝ氣味よと云つた姉の言葉を射すやうに感じた。
それから、一週間もしないうちに召集令が下り、守一はいよいよ出征する事になつたけれど、人の風評によれば、工藤もまた召集令が來て出征するのだと云ふことだつた。もんは、あぶない淵に沈んでゐるやうな、莫々とした暮しのなかにある工藤に召集令が來たことは丁度よかつたと思つた。工藤からは何とも云つては來なかつた。守一を送りがてら仙臺行きの汽車に乘つて、もんは椅子へ腰をかけると、もう、これで工藤とも久しく逢へないだらうと思つた。走る汽車の中で考へる工藤の思ひ出はやつぱりなつかしくきれいなものである。萬葉の歌のお方も、あるひはかうした女の氣持だけをお詠みになつたのではあるまいか、戀草を力車に七車の歌をもんは思ひ出して、現實には本當の愛をつかみ得なかつた、女の雲のやうなむくむくした氣持を、もんはいまこそしみじみとなつかしく知つた。人を戀すると云ふことは猫や犬のやうであつてはいけないのだ……。もんは守一の膝に自分の廣いシヨールを掛けてやつた。
底本:「改造」改造社
1941(昭和16)年9月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:花田泰治郎
2005年6月27日作成
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