秋果
林芙美子

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(例)薄緑[#「薄緑」は底本では「薄縁」]
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 芝居が閉ねて劇場を出ると、もんは如何にも吻つとしたやうに暗い街を歩いた。おなかが空いてゐたけれど、もうこのごろは何一つこんなに遲くまで食物店をひらいてゐる店もない。芝居もどりの人達が、ぞろぞろ自分のそばを通つてゐた。新宿行の電車の通つてゐる四ツ角の安全地帶のところまで來ると、もんは誰かが自分の肩を強く押して通つたやうな氣がして、ふつと振り返つたけれど、誰が肩を押して行つたのか、たゞ、自分のまはりを黒い人影が電車道の方へぞろぞろ流れてゐるきりだつた。秋らしいひいやりとした夜風が吹いてゐた。安全地帶で、暫く新宿行きの電車を待つてゐたが、來る電車も、來る電車も滿員で、もんにはなかなか乘れさうにもない。何處から、こんなに澤山のひとが鈴なりになつて來るのかもんには不思議だつた。さつきから、もんと同じやうに、何臺も電車を待つてゐる二三人連れの女のひとたちが、時々華かに笑ひあひながら芝居の話をしてゐた。そのなかのひとりが、笑ひ聲のしづまつたあとで、「何だか、行末のことを考へてゐると、私、心細いやうな氣がして仕方がないわ」と云つた。もんは獨りで安全地帶の廣告燈のそばに立つてゐて、心細い行末だと云つた女の聲をしみじみときいてゐた。
 もんは昨日、上海から戻つて來たばかりで、東京の街のすべてがなつかしくて仕方がなかつた。東京はやつぱりいゝところだと思つた。何處がいゝと云ふわけではなかつたけれど、獨りで住むにはやつぱり東京がいゝと思つた。軈て暫くしてから、やつと少しばかり空いた電車が來たので、もんは、二三人連れの女の人達のうしろから電車に乘つた。女の人達は、繪でも描く人達なのか、くすんだ電車のなかがぱつと明るくなるやうな思ひ思ひに風變りなかつこうをしてゐた。流行の、前髮をいくつも輪に卷いて、澁い金茶のお召に紅い帶を締めてゐるひとや、黒と白の氣取つた脊廣を着てゐる脊の高いひとや、薄緑[#「薄緑」は底本では「薄縁」]の外套を着て、手に大きい黒いハンドバツグをさげてゐるひとなど、暫く東京を離れてゐたもんには新鮮な感じでこの女づれが眺められた。安全地帶ではあんなに元氣にしやべりあつてゐたひとたちも、電車へ乘つてしまふと、みんな默りあつて吊革へつかまつてゐた。どのひとが、行末を心細いと云つたのかわからなかつたけれど、趣味のいゝ華かな姿を見てゐると、どのひとも、あまり行末のことなど考へてゐるやうにも見えなかつた。もんは、この女のひと達と並んで吊革に手をそへてゐたけれど、暗い窓にうつつてゐる自分の姿の方が、はるかに行末のことを心配してゐるやうに見える。
 四谷見附まで來ると、女の人達は降りて行つた。明るいところで見る女の人達はどのひとも服裝よりは老けた顏をしてゐたけれど、どのひとの服裝もちやんと東京の街に似合はしく調和がとれてゐた。幸福さうな人達だなともんは、自分も、いまにあんなになりたいと思つた。いままでは莫迦な夢を見たと思つて、これからまた何處かに就職してせつせと働いてみたいと思つた。上海のデパートで買つた、出來合ひの腰の線の細い外套を着てゐる自分の姿が何だか支那人くさくて、湯たんぽをかゝへて歩いてゐた、支那人の賣娼婦のやうにおもへて仕方がない。
 大木戸のアパートへ戻つたのが十一時頃だつた。弟はもうよく眠つてゐた。電燈に紫の風呂敷をかぶせて、枕元に煙草を散らかしたまゝよく眠つてゐた。もんは外套をぬぐと、机のそばに置いてある光つた鋲のついたトランクに腰をおろして暫く呆んやりしてゐた。机の上にはいろんなものがごちやごちやと置いてあつたが、新しい糊の壺がもんの眼にとまつた。おなかが空いてゐたせゐか、糊壺を手に取つて一寸匂ひをかいで見た。甘い菓子のやうな匂ひがした。暖國にても腐敗することなく、また、寒國にても凍ることなし。純白清潔にして附着力強甚なれば、貼付後離れることなく、且つ使用後乾燥速なり、殊に本品は特殊な愛すべき芳香を有すれば、使用上不快なく、日常机上に缺くべからざる逸品なり。もんは効能書きを讀んで、小指で糊をすくひ、ほんの少しなめてみた。何の味もないのが物足りなかつた。二十六にもなつて、弟はまだ嫁ももらはないで、いまだにかうしたアパート住ひをしてゐるのがもんには可哀想でならない。何時召されるかも知れないと云つて、弟は兵隊に行つて戻つて來るまでは獨りでゐるのだと、このアパートにもう二年も獨りで住みついてゐる。日本橋の或る信託會社に勤めてゐて、時々詩や小説なんかを書いてゐた。糊壺のそばには、小さいレザー表紙のアドレスブツクがあつた。もんは手にとつてぱらぱらとめくつてみた。いろんな知人の住所のなかには、上海にゐたもんの所書きもあれば、工藤の住所もひかへてあつた。あんなに思ひつめてたづねて行つた工藤のところから、いまは戰ひやぶれたやうな氣持でもんは東京の弟のアパートへ戻つて來てゐるのだ。丁度、一年前のいまごろ、秋雨のしとしと降つてゐる長崎の町で、工藤へ船の名前を知らせてやつたものだつた。工藤は船を迎へにも來てくれなければ、たづねて行つた工藤のアパートにはもうよその女のひとが一緒に住んでゐた。いつしよの船に乘りあはせたわけのわからない女の世話で、四川路底にある日本人旅館に宿をとることが出來たけれど、もんは、あの時の男のこゝろの頼りなさをいまだに忘れることが出來ない。工藤は弟の友達で、もんよりは一つ下だつたけれど、もんは工藤と同じ年だと、一つ年をかくしてゐた。工藤とは弟の紹介で自然に親しくなり、二人で一度信州の山の温泉へ旅行をした事があつた。工藤は新聞社へ勤めてゐた。お互ひに好きだとは一度も云ひあつたこともなく、旅行に出ても、まるで、一二年も前から同棲してゐた者同志のやうな、坦々とした交渉が出來てゐた。もんは十年も前に母を亡くしてからは、父親と、弟二人を相手に、まるで男まさりのやうな氣強い性格にかはり、五六年前から勤めを持つやうになつてからも、自分の對象となるべき人をみつけるよゆうが少しもなかつたのだ。平凡な職業婦人で、一寸見れば美しくはあつたけれど、男の社員達も、もんの事を同僚と思ふ以外には、異性と云つた氣持が少しもしませんねと云つてゐた。そのころは、もんも、そんなに云はれることを、自分が男の社員達と同等にみとめられてゐるやうに、何だかほこらかな氣持を持つてゐたのだつたけれど、女はやはり女であり、女らしいと云ふことが本當だと云ふことをこのごろになつてもんは悟つた。こんど、正月がくれば三十になる。女も三十になつてしまへば、もう、女の將來はおよその行末がきまつてしまふともんは思ふやうになつた。もんが三十になるまでの青春のひとゝきは工藤がたつた獨りであつた。工藤を知つたゝめに、もんは女の道としてのまた別な世界が開けたけれども、その愉しさはいまはあとかたなく消えうせてしまひ、何も知らないで暮してゐた時よりもいつそう暗いみじめなおもひをなめなければならなかつた。こんなみじめな思ひをする爲に、此世の中には、男も女も澤山うじやうじやとゐるのだらうかともんは不思議に思ふのだつた。何も話しあはなくても、一人の男と女がむすばれあつた場合、貞操は固く結ばれあふものだと信じきつてゐたし、また、工藤の人格についても大きな安心を持つてゐたのだ。上海へ特派されて行く時も、工藤は、長くなるかも知れないからもし會社をやめられるやうだつたらやめて來ないかとも誘つてくれたし、弟の守一も上海行をすゝめてくれたけれど、もんは、工藤を知つてからますます働くことに魅力を持つた。いくらか貯金も出來てから、工藤ときちんとした家庭を持ちたいと願つた。女學校を出て、早くから現實的な生活に放り出されてゐたもんは、自分の及びもしない世界を夢想したり、這入りもしない金の豫算をたてる事が出來ない几帳面な女になつてゐた。働いてゐさへすれば安心して將來健實な生活が出來ると思つた。上海へ旅立つて行つた工藤からは一二度簡單な音信があつたが、その後半年ばかりして何のたよりもなくなり、もんが手紙を出しても工藤からは返事一つよこさないのである。もんは、工藤の仕事がよつぽど忙がしいのだと思つた。工藤が手紙をよこさなくなるのと反比例して、もんはだんだん工藤がなつかしくて仕方がなかつた。會社から、あんまり疲れて戻つて來ると、躯ぢゆうが火照つてなかなか寢つかれない事があつた。そんな晩は、いまゝで考へても見なかつた、甘い虹のやうなおもひが胸のなかへぱアと明るく射しこんできて、工藤の顏や手足がばらばらと降つて來るやうな慘酷な空想をしたりした。女の生涯にとつて、男を知るぐらゐ此世に不思議なことがまたとあるであらうか……。もんは、無神論者でもなかつたけれど、工藤を知つてから、初めて、この廣々した人間世間の神秘を知つたやうで、誰にともなくうやうやしく祈る氣持が湧くのであつた。草一莖、土のひとくれにももんは神々しいものを感じた。工藤からたよりが來なくなりもんはだんだん焦々して來たけれど、或日ぶらりと遊びに來てゐた守一が、姉の淋しそうな姿を見て、「一人でくよくよ考へてゐたつてはじまりませんよ。工藤さんももう氣がかはつてしまつてゐるのかもわかりませんね。――姉さんは、案外世間みずで、つまらない生活をしてゐると思ひますよ。昔のひとは男も女も偉らかつたンだなと思ふンだけど、萬葉のなかの女のひとの歌に、戀草を力車に七車、積みて戀ふらく吾心わも、と云ふのがあるンだけど、いまの女のひとたちには、このこゝろの萬分の一の激しい熱情もありませんね。何だの彼だのつて云ふけど、いま少し、若い女がぽつと明るくなるといゝと思ふなア、何だか暗くてじめじめしてゐるンぢやありませんか。そのくせ、どのひとも荒つぽくてがさつで、何だか、女の世界を感違ひしてゐるンですよ。怖い顏してる女の顏が妙にうようよ目立つやうになりましたねえ。會社で見てたつてそうですよ。女事務員なンかが大金を持つて使ひに來るンだけど、金をつかんで出すかつこうが、もうまるでライオンみたいに亂暴なンです。澤山の金をみても胸がどきどきしないンですね。へいちやらな顏をして、預けに來るンだから、これでは男の給仕の方が女みたいだと話しあふ時があるンですがね。女がおしやれをしなくなると、男よりも荒さんでひどくなつてしまふンですね。全くよくないけいこうですよ。かへつて、三十をすぎた商家のおかみさんの方がよつぽど色氣があつて人情がこまやかですね。――いまごろの若い女は、いつたい何を考へ、どんな希望を持つてゐるのか少しもわからない。水を與へないで、美しい花を見ようと云ふのは世間が無理ですよ。關西のどこかでは、一日、お白粉をつけない日をつくつてみたり、紅を塗らない日をつくつてみたり、どうにも厭なことですな」守一はそんなことを云つて、もんにも、工藤をだづねて上海へ行つてみてはどうかとすゝめてくれた。もんは、弟にそんな事を云はれるとなほさら淋しくて仕方がなかつた。鏡を見ても、何となく働きづかれがしてゐるやうに自分が乾いてみえる。會社へ出てゐても、誰一人として自分をしみじみとみつめてくれる人はない。どんな不器量な女でも、始めてのはいりたての女事務員には、何故か男の社員は親切な態度をみせてゐた。新しくはいつた女事務員は、一日一日と美しくみがかれて來て、二三ヶ月もすると、すつかり職業婦人のタイプになり、平氣で男の社員の前でコンパクトを擴げるやうになつてくる。すると、男の社員達は二三ヶ月前に見せてゐたあんなに親切な好意を憎しみの表情にかへて、お互ひ同志ではニツクネームをつけてその女事務員を呼びあつたりしてゐた。もんは長く勤めてゐるだけに、こんな場面のうつりかはりを幾度か見て來て知つてゐるのだつた。
 思ひきつて、もんが會社をやめて上海へ旅立つて行つたのは去年の秋であつた。音信が來なくても、船の名前を知らせてやれば、工藤だつて、どんな事情があるにしても迎へに來ないと云ふはずはない。雨の降る日に長崎の町を發つて、翌日
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