まらせてゐた。「まア、どうしてそんな簡單に死んだりするンでせう。とても、お丈夫さうな方なンじやありませんか?」「丈夫は丈夫なんですが、あいつも調子が狂つたンですよ。死にぎはは、可哀想だつたけれど、僕がついてゐたンで安心して眼をつぶりました。生前は僕を困らせていけない女房だつたけれど、死んでみるといゝ奴だつたと思つて想出していけないなア……。これも、もんさんの罰があたつたのかな」もんは、厭な事を云ふひとだと思つた。本社がぢきそばにあるとかで、外套も置きつぱなしで美松へ茶を飮みに來たのだと云つた。「ぢやア、上海を引きあげてお歸へりになつたの?」「はア、あのアパートだけは引つ越しましたがね。正月にはまた今度は南京へ行きます。――もんさんは何だか幸福さうだな、とてもいゝ顏色だ。弱はさうなひとが案外丈夫なのだな」工藤は汚れたカラーをしてゐた。顏色も黄ろくなる疲れた人のやうに歩きかたにも元氣がない。工藤は一人者になつて、いま、もんの肩を抱くやうにして寄り添つて歩いてゐるけれど、もんは二人の間はいまもつて遠い距離があるやうに思へた。二人は内幸町まで歩いて、お茶も飮まないで寒い街角で別れた。二三日したら夜うかゞふと云つたけれど、もんは別にあてにもしてゐなかつた。二三日すると、夜更けてから工藤は本當にたづねて來た。手にビール瓶を二本さげてゐた。此寒いのにビールでもないでせうと守一が云ふと、ビールを燗をして飮むとうまいのだと、一本のビールを土瓶にあけて火鉢へかけた。工藤は幾分か醉つぱらつてゐた。もう新聞社もやめてしまひ、いま浪人になつてしまつたのだと云つた。自分の躯からは今は何もなくなつてしまひ、落葉を拂ひおとしたやうにさばさばしたものだと云つて熱いビールを飮んだ。もんは、タオルの寢卷の上に羽織を引つかけてゐた。工藤は珍らしいもんのなまめかしい姿を見て、「もん子女史も、時にはこんな優しい姿をする時があるンですね」と云つた。信州の山の中では、男の浴衣を着てゐたもんの和服姿しか知らない工藤には、よつぽどもんの羽織姿が珍しかつたのであらう。工藤は獨りで醉つた。醉ふと亡くなつたひとの愚痴が多くなつてくる。亡くなつたひとは、田舍の女學校を出て、すぐ上海に來て喫茶店に働いてゐた娘ださうで、まだ十九で非常に野性的な女だつたのださうだ。アパートの段々を幾階も降りるのが厭だと云つて、工藤は人が見てゐても若い妻君を脊負つて階下へ降りたものだと話してゐた。もんはきゝづらい思ひだつた。工藤はよつぽど、どうかしてゐるのではないかと思つた。いくら亡くなつてゐるとは云へ、自分の前で、何の遠慮もなくそんな話が出來るものだと思つた。あんまり莫迦にされてゐるやうなので、もんは「死んだひとにはかなひませんね」と云つた。外國の土地を踏んで來ると、こんなに自己本位な薄のろになつてしまふのかと、守一もしまひには默つてしまつた。いくらもんには甘えてゐるからと云つて、これではあんまり氣の毒だと、守一は怒つたやうな表情をしてゐた。工藤は二本のビールを飮むと、しよんぼりと歸へつて行つた。もんがあわてゝシヨールを肩にして工藤の後を追つて行つた。「そんなに醉つてゝ大丈夫ですか」もんが階段の下でよろよろしてゐる工藤の後から押すやうにして戸外へ出た。工藤は大丈夫ですよと云つた。「僕は、[#「「僕は、」は底本では「僕は、」]自分が君達に失禮だつた事もよく知つてゐます。知つてゐてどうにも話さなければ始末につかなかつたのです。わかりますか。もん女史もこれから元氣に暮し給へ、命さえあればまた逢へますよ。守一君にもよろしく。どうせ、守一君もそのうち出征して行くでせうが、もんさんも、あとに殘つて、お父さんを大切にして上げて下さい。僕は親不幸ばかりしてゐます。これから中野の友人のところへ行つて泊りますよ」もんは握手をしかけた工藤の手を離して、すぐ部屋へ戻つて行つた。守一がもんの寢床を敷いてゐた。「工藤君も變りましたね」「えゝ何だかとても淋しさうね。私の罰だなンて厭な事だけれど、でも、女のひとの愛情をあれだけ身に沁みて感じてゐるの、少しは判つていゝ氣味よ」守一は何の事だかわからなかつたけれど、いゝ氣味よと云つた姉の言葉を射すやうに感じた。
 それから、一週間もしないうちに召集令が下り、守一はいよいよ出征する事になつたけれど、人の風評によれば、工藤もまた召集令が來て出征するのだと云ふことだつた。もんは、あぶない淵に沈んでゐるやうな、莫々とした暮しのなかにある工藤に召集令が來たことは丁度よかつたと思つた。工藤からは何とも云つては來なかつた。守一を送りがてら仙臺行きの汽車に乘つて、もんは椅子へ腰をかけると、もう、これで工藤とも久しく逢へないだらうと思つた。走る汽車の中で考へる工藤の思ひ出はやつぱりなつかしくきれいなものである。
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