であらう。どう云ふ世の中になつてしまつたのか、人間が流木のやうにどんどん東京と云ふ河口へ流れて來てゐる。庶務課のひとは、もんの履歴書を見て立派な文字だと云つて讃めてくれた。あてがはれた机にはナイフで傷のついてゐるところや、サイダーか何かの瓶の口をあけたやうなギザギザの跡があつたり、もんは何となく氣持が惡るかつた。女のひとが三分の一を占めてゐるやうな廣いオフイスの中に花一つ飾つてない。これでは、どんなに月給を澤山もらつても、女のひと達が荒々しくなるのもあたり前だと、もんはタイプのネジを寄せ、汚れたキイを一つ一つ叩いてみた。油の差しやうが惡いのか、紙の上に文字がうまく載つてゆかない。もんは復へつてから守一に明日から勤める會社の模樣を話した。「ねえ、人間つて、たゞ働く爲だけで生きてゆけるものなのかしら、いくら、かうした非常な世の中だつて、そんな人間のおもひやりなンてものが忘れられて、たゞがらがらとネジを卷くみたいに一本調子に働いてはゆけないと思ふのよ。私の考へてゐることは間違つてゐるのかしら。――からげんきだけでは人間は生きてゆけないものねえ。事務服ときたら袖口のほころびたままのを着てるのがゐるし、何だか火事場で仕事をしてゐるみたいなのよ。はりきつてゐると云へばそれまでなんだらうけれど……妙なものね。私も、だんだん古くなつてきたのかもしれないわね」六疊ばかりの狹い部屋の中では、もんと守一と暮すにはなかなかきうくつである。守一は割合澤山本を持つてゐた。蓄音機はなかつたけれど、レコードも二三十枚あつめてゐた。「そりやア姉さんがすこし古くなつたンですよ。いまは感情がどうのこうのとは云つていられないンですからね。電車に乘つても、バスに乘つても、誰かゞかならずどなりあつてゐるぢやありませんか……」守一はうがひをして籐椅子に腰をかけた。――「この部屋のなかには何もたべものがないのね。明日にでも、私いろんなものを少し買つておきませう」もんは復へりに料理店へ寄つてたべた一皿の定食が胸につかえさうであつた。守一は會社の復へり、街の食堂で毎日どんなものを食べて來るのだらうと、もんは、家庭のないところに復へつて來る弟を氣の毒だと思つた。台所がついてゐても、そこには、朝、茶を淹れた白い湯のみが二つあるきりで皿一つ、茶碗一つない。もんは、アパート住ひをしてゐる、ひとりものゝ男や女は、みんなかうした暮しをしてゐるのだらうかと思つた。もんは、何だか迷子でも探すやうにうろうろしてゐる。獨りものゝ弟にせめて何も彼もとゝのえて、狹い部屋の中をアツト・ホームな世界にしてみたいと心は焦りながら、もんは割合こまめではなかつた。人を責める前に、たつた一部屋の拭掃除もおもふやうにゆかないものだと、もんは疊を拭きながら息切れがしてゐる。夕方になると熱が高くなり、脊中がづきづき痛んだ。守一が煙草を喫ふとがまんにも辛棒してゐられない。躯を丈夫にしなければと思ひながらも、一ヶ月でも二ヶ月でも靜養出來る貯えはないのだつたし、守一は一度病院に行つて診て貰つたらどうですかと云つてくれるのだつたけれど、病院へ行くことは何となくもんは臆病になつてゐる。もんは東京へ戻つて來てからは妙に長生きをしたいと念じてゐた。どんな思ひをしても生きてゐたい。ぼろぼろになつて乞食のやうになつても生きてゐたい。工藤の事を思ひ出すと、時々たまらない氣持になるのだつたけれど、もんは、守一にも、もう工藤の事は話さなくなつた。男のなかにも、女のなかにもいろいろな面があるのだと、もんは、人間の愛慾の樣々をおそろしいものに思つた。どのひとも何氣ない樣子で歩いてゐながら、男は女に苦しめられ、女は男に苦しめられて生きてゐるのかと、時々たちどまつて群集を眺める折があつた。――もんは毎日會社へ勤めた。始めて會社勤をした時のやうに大きい輝くやうな希望はなかつたけれども、それでも、一年ぶりの東京での生活のせゐか、もんは活々としてゐた。軈て間もなく秋も終りになり、もんは[#「もんは」は底本は「もんと」]外套を着て通ふころになつて、もんは日比谷公園の前で思ひがけなく工藤に逢つた。工藤は外套も着ないで海老茶色の[#「海老茶色の」は底本では「老海茶色の」]脊廣を着てゐた。もんは吃驚してものが云へなかつた。「元氣さうだなア、僕は一週間ほど前に戻つて來たンですよ」工藤は癖でする、眼をぱしぱしとまばたきさせながら、もんの肩を抱くやうにして歩いた。もんは何が何だかわけがわからずに工藤の歩く方へ歩いた。「あれから、僕はさんざんな目にあつたンだ……何も彼もなりゆきで仕方がないけれど、これも僕の運命だし……一度、守一君のところにもおもんさんの樣子をきゝに遊びにゆかうと思つてゐたンですがね。――女房は流産のあげく、急性肺炎で亡くなつてしまひましたよ」工藤は鼻をつ
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