ゝかげんに工藤さんの事なんかあきらめて、米倉さんと云ふひとと結婚をした方がいゝンですよ。姉さんだけでも何とか家庭を持つて落ちついてもらはないことには、何時までも親爺をあのまゝで心細いおもひをさしておくわけにもゆきませんしね。孝次だつて、お父さんの事が一番心配だつて云つてゐましたが、あのひとも年をとつてから妙に肉親の縁がうすくて氣の毒ですよ」もんは熱い支那茶をすすりながら父親に濟まないと思つた。「守一さんこそ結婚すればいいのよ。いまならお嫁さんはどこからだつてくるでせう……」守一は出窓に腰をかけて姉の土産のスリーキヤツスルを大切さうに喫つてゐた。「私は當分結婚なんかしませんよ。あとに殘るものが氣の毒ですし、どうせ遲かれ早かれ兵隊ですから、まア、還へつて來てからきれいなのをゆつくり貰ひます。――そりや、僕だつて人いちばい淋しがりやで、女のひとはほしいと思ふんですけれど、いまはそんな氣持にならない。本當ですよ。そんな事よりも、もつと僕には考へることが澤山だし、兎に角、大變な時代ですね……。會社へなンかぐずぐず行つてゐるより、早く出て行きたいと思ひますよ。僕なンか、酒を飮む愉しみも知らないし、これと云つて別にやりたいと云ふこともないし、大學時代から會社員になつてサラリーを貰ふ教育をうけてゐるものには、もう早く行つた方がいいと云つた氣持だけですよ。親爺もこの間手紙をよこしてゐましたがね。親爺さんは實にいゝですからねえ……」姉と弟の水いらずな話の出來るのをもんは久しぶりだと思つた。「でもねえ、私はもう結婚する氣持は少しもないンだし、守一さんがもしも出征するときが來たら、やつぱり、何つて云つても私がお父さんをみなくちやならないンだし、そうしたら、私、お父さんと二人で東京で暮しますよ。うちの亡くなつたお母さんも、早く亡くなつてしまつたけれど、うちぢや、女達がみんな薄命なのね。たみ子だつて亡くなつたしね……」たみ子と云ふのは孝次の上の姉で、もんとは六ツも違つた。仙臺の女學校を出るとすぐ胸を惡くして亡くなつてしまつた。母もたみと前後して亡くなつたけれど、不思議な事には、二三年前に、父親が茶飮み友達のやうにして何處からか連れて來た女のひとも肺をわづらつて去年亡くなつてしまつた。「みんな、女の運が弱くて、うちぢやア、男の運の方が強いンだから……守一さんだつて孝ちやんだつて大丈夫よ」ひよつとしたら、今度は私が死ぬる番ではないかと冗談を云ひたかつたけれども、もんは不吉な氣がしてその事は默つてゐた。
守一が會社へ出て行くと、もんは自分も仕度をして街へ出て行つた。一日も早く就職して、父親を東京へ呼びたかつた。昨日と今日、新聞を切り拔いておいたところをまはつてみやうと、もんは築地行きの市電へ乘つた。街路樹の枯れ果てた秋の東京の街は銀色にいぶしたやうに白つぽく見える。こんな年になつてからも街に職を探しに出なければならない自分を困つたものだと思ひながらも、もんは、少しばかり晴々した氣持だつた。色があさぐろくて眉の濃いのが情のこまやかな人だのに、あなたばかりはそんなには見えないとよく昔の女友達が云つてゐたけれど、眉の濃いと云ふのが苦になつて、もんは時々毛拔きで眉毛を拔いたりしてゐた。眉毛を拔くときに、細く眼を閉じると、あら、自分にもこんな顏があるのかと、もんは子供のやうにそつと鏡のなかで色々な變化のある表情をしてみる。眼を細めると佛樣のやうな顏になる。ぱつと眼を開くと、よそよそしい表情になつた。笑ひ顏をすると、鼻筋に貧相な皺が寄つた。いまも電車の窓硝子にうつる自分の顏を、もんはぢつと眺めてゐた。昔と違つて、何處へでも勤めようと思へば何處でもつかつてくれる時代で、もんのやうに邦文タイプも出來れば、たどたどしいながらも英文タイプも打てるとなると、勤め口にはさほど困らなかつた。――もんはその日に麹町内幸町の大阪ビルにあるMパルプ工業會社の支店に勤めるやうになつた。昔は、自分のやうな年齡にあるものは傭主の方でみむきもしなかつたものだけれど、いまでは年齡のことなンか苦にしないで何處でも氣樂に働く事が出來た。そのかはり、人の流れも激しいせいなのか、どの社員も新參の人達ばかりで、事務机のまはりは波が動いてゐるやうにざはざはしてゐた。もんの机のまはりにも、九州言葉の娘もおれば、東北なまりの娘もゐた。インクの乾いた硝子瓶が机の中には三ツ四ツごろごろしてゐたし、ペン軸のこはれたのなンかが紙反古といつしよにひきだしの奧にはいつてゐたりする。去つてゆくものゝたしなみのなさが、まるで岩間を突きあたり突きあたり流れてゆく流木のやうにもんには佗しく思へた。こゝには、どんな娘が腰をかけてタイプを叩いてゐたのか、二三日も日がたつてしまへばもう四圍のひとたちはみんなそのおもざしや名前を忘れてしまふの
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