一は廊下へ出て行つて、庭に投げ捨てられた時計をひろひに行つた。全く、埼子が云ふまでもなく、新京なんかに就職をしようとは、一週間前までも自分は考へてはゐなかつたのだ。學校を出たら、東京に勤めるものとばかり考へてゐたし、現に、自分も學校の就職係には、東京電燈とか、三井、三菱なんかに履歴書を出しておいたのであるけれども、謙一は、急に、それらの就職口をとりやめて、自分だけ新京の××製鋼會社へ就職することになつたのである。
青年の氣まぐれとは云ひきれない、何かしら、鬱勃とした思ひが謙一の若い心をかりたててゐたのだ。狹い日本の内地で、小さい椅子にしがみついてゐるよりも、遠い處へ行つて、思ふぞんぶん働いてみたい、と思つてゐた。新京は純粹な新興都市であり、この戰時下にもりもり發展しつゝある製鋼事業は、若い謙一に働く魅力を感じさせた。
急に、新京へ職がきまつたことを、埼子の兩親に打ちあけた時、流石に埼子の兩親は驚きもし、そんな遠い土地へ行かうとする謙一の氣持を不思議がつてもゐた。
○
謙一が、時計を埼子の部屋へ持つて行つてやると、埼子は、人がかはつたやうに、謙一から時計を靜かに
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