、いつでも來て貰ひたい位だ。――僕は、のびのびした處で働きたいんだよ。だから氣持よくやつてくれるといゝな‥‥」
埼子は默つてゐた。
こんな立派なひとが遠い處へ行つてしまふ‥‥厭々、どうしても厭だ。埼子は默つたまゝ謙一を睨むやうに見上げてゐた。肩ががつしりしてゐて、大きなロイド眼鏡の奧の眼は、人なつこく、いつも空間をみつめてゐたし、顎の張つたところは、謙一の強い意思を現はしてゐて埼子はとても好きだつた。――このまゝ別れるにしても、額に接吻をされただけで別れるのは埼子には心殘りだつたし、もう、二人きりでゐると云ふのも今日かぎりだと思ふと、埼子は、さつきのやうに焦々して砂に轉げてみたくなるのであつた。――夕方の汽車で母たちがやつて來ることになつてゐる。朝の汽車で謙一と二人だけで先發してこの千葉の別莊へ來たのが、無意味のやうに思はれてくる。風呂場の裏では別莊管理の百姓爺さんが鷄を締めて焚火で毛燒きをしてゐた。
「もう、明日、お別れね?」
「うん‥‥」
「ごめんなさいね?」
「何も、あやまることはないぢやないの。僕だつて、埼ちやんには色々お世話になつたんだから‥‥感謝してゐますよ」
六時頃、埼子の母たちが來た。中堀や櫻内も一汽車遲れてやつて來た。母は埼子の小さい弟たちを二人も連れて來たので、淋しい別莊にはちきれるやうに賑やかになつた。躯の弱い埼子が、秋からずつとこの別莊に養生に來てゐて、珍しく一週間ほど東京へ戻つてゐたのである。今朝も、謙一と連れだつて兩國から汽車に乘つたのだけれど、埼子は、あわたゞしく東京で謙一と別れたくはなかつたのだ。千葉の家で、謙一の送別會をしようと云つて、忙しい謙一を無理矢理に埼子がさそつたのであつた。
「おや、犬でも上つたのかしら? お座敷に砂がいつぱいよ‥‥」
埼子の母は、座敷に散らかつた砂を見て、臺所へ箒を取りに行きながら、
「埼子さん、お座敷の砂はどうしたのよ?」
とたづねてゐる。埼子は謙一と顏を見合はせてくすりと笑つた。中堀も、櫻内も、海を見るのは久しぶりだと、寒いのに庭の垣根に凭れて海を眺めてゐた。謙一だけが背廣姿で、中堀も櫻内も學生服だつた。
「さア、皆さん、寒いからお座敷へ這入つて下さい。お火鉢が出てゐますよ‥‥」
座敷はきれいに掃かれて、近所から寄せあつめてきた座蒲團が並び、母は火鉢に大きな鍋をかけてゐる。
「おい、おい
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