。こつちへお這入りよ、風邪ひいちまふぜ‥‥」
謙一が埼子の弟の喬を抱いて、縁側から垣根のところにゐる二人を呼んだ。埼子は黒いリボンで頭髮を結んで、洋服の上から派手な錦紗の羽織を引つかけてゐた。京都人形のやうに沈んだ顏だちで、皮膚の薄いのが、妙に痛々しくみえる。
中堀や櫻内が部屋へはいつて來ると、埼子はわざと、この二人の大學生の間に坐つた。謙一は、自分のそばには坐らないで、向ふ側に、にこにこして坐つてゐる埼子を見ると、かへつて吻つとしたやうな氣持になつてゐる。
「櫻内さんは何處へおきまりになつたの?」
「何です? 勤めさきですか?」
「えゝ」
櫻内は鹿兒島の生まれで、鹿兒島の言葉の訛がなかなか拔けないらしく、妙にどもりながらしやべつてゐた。
「八幡の製鐵所へ勤めることになりましたけどねえ、誰つちや知つたひとがをらんので、淋しかです‥‥」
「まア、八幡へいらつしやるの? 中堀さんは何處?」
「僕は滿鐵の方で吉林へ行きます。隨分遠いンですが、清水が新京へ行くンで、時々は逢へると愉しみにしてゐますよ‥‥」
「まア遠い處へいらつしやるのねえ、謙一さんが新京へいらつしやつて、隨分遠い處だとおもつてゐたのに、中堀さんはまだ遠いのね‥‥」
鍋のなかの鷄や野菜が煮えはじめた。謙一は喬に少しづつ鍋の中のものをよそつてやりながら、喬を抱いた膝をびくびくと動かしてゐる。櫻内は五分刈りで精悍な躯つきであつたが、瞼がはれぼつたく、笑ふと大きな八重齒が出て子供らしい表情になつた。中堀はまるで市役所の官吏にでもなつた方がいゝやうな物靜かな恰好で、頭髮もきれいになでつけて、制服のカラーも清潔にしてゐた。色があさぐろく、大きな鼻がいかにも好人物を示してゐる。中堀は風邪をひいてゐるのか、時々咳をしてゐた。
「もう、來年は、みんな遠くへ行つちまふのね‥‥」
埼子が不器用な手つきでみんなにビールをつぎながら云つた。櫻内だけはビールよりは酒がいゝと云ふので、別莊管理の爺さんに頼んで地酒を買つて來て貰つておいたのだ。八時過ぎには木更津の驛に勤めてゐると云ふ謙一の友人の延岡もやつて來た。謙一とは木更津の中學時代の同窓生だとかで、延岡はがらがら聲で無遠慮にしやべる男だつた。平凡な驛員型の人物であつたが、話が率直で面白いのでみんな好意を持つた。延岡は羽織の下に地味な袴をはいてゐる。
「清水は、新京へ行くんだ
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