一は廊下へ出て行つて、庭に投げ捨てられた時計をひろひに行つた。全く、埼子が云ふまでもなく、新京なんかに就職をしようとは、一週間前までも自分は考へてはゐなかつたのだ。學校を出たら、東京に勤めるものとばかり考へてゐたし、現に、自分も學校の就職係には、東京電燈とか、三井、三菱なんかに履歴書を出しておいたのであるけれども、謙一は、急に、それらの就職口をとりやめて、自分だけ新京の××製鋼會社へ就職することになつたのである。
青年の氣まぐれとは云ひきれない、何かしら、鬱勃とした思ひが謙一の若い心をかりたててゐたのだ。狹い日本の内地で、小さい椅子にしがみついてゐるよりも、遠い處へ行つて、思ふぞんぶん働いてみたい、と思つてゐた。新京は純粹な新興都市であり、この戰時下にもりもり發展しつゝある製鋼事業は、若い謙一に働く魅力を感じさせた。
急に、新京へ職がきまつたことを、埼子の兩親に打ちあけた時、流石に埼子の兩親は驚きもし、そんな遠い土地へ行かうとする謙一の氣持を不思議がつてもゐた。
○
謙一が、時計を埼子の部屋へ持つて行つてやると、埼子は、人がかはつたやうに、謙一から時計を靜かに受取つて、ゆつくりゆつくり時計のネヂを卷いた。
「僕が新京へ行く氣持になつたのは、カツ子さんなんかのことぢやないンですよ。そりやア、僕はあのひとは好きだつたし、結婚出來れば結婚もしたかつたけれども、もうあのひとも結婚して行つちまつたし‥‥僕は、いつまでもカツ子さんのことを考へてゐる譯にもゆかないぢやありませんか? 遠い處へ職を求めたと云ふのは僕は本當は東京がきらひになつてゐるんですよ‥‥生れ故郷の東京を去るなんて云ふのは、埼ちやんには理窟がわからないだらうけれど、兎に角、僕は一度、東京を離れてみたいンだ。そして、新しい發展性のある土地で働いてみたいと思つただけ‥‥僕は東京は本當は厭なんだ!」
「ぢやア、私もきらひなのね?」
「うん、そりやア‥‥困つたなア、僕は埼子ちやんは好きだよ、とても好きなんだけれど、東京が厭になつた氣持の中には、埼ちやんなんか何の關係もないし、これは、埼ちやんにはうまく説明出來ないと思ふけど‥‥男がね、一生の仕事をきめると云ふ時には、そんな、女の問題や色々な人情とは、また違つたものがあると思ふンだけど‥‥新京つて、現在では少しも遠い處とは思はないし、埼ちやんなんか
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