をみつめてゐる。埼子は帶をといた。そして、帶をそこへときすてたまゝ自分の部屋へ走つて行つた。謙一は疊の上の砂を眺めてゐたが、急に、熱いものが胸に沁みてきた。埼子の淋しさが、昨日からの自分を責めてゐるやうにもとれる。謙一はさつき濱邊まで埼子を探しに行つたのだけれど、埼子を探すことが出來ずに戻つてきたのであつた。謙一はしばらく座敷へつゝ立つてゐたが、心のうちでは、埼子へ對する激しい愛慕の氣持がつきあげてきてゐた。
 謙一は埼子の部屋へ行つてみた。埼子はもう洋服に着替へて濡れ手拭で顏を拭いてゐる處だつた。
「ねえ、ごめんなさいね‥‥」
「‥‥‥‥」
「怒つた?」
「何を怒ることがあるンです? 怒ることなんかありやアしませんよ。――さつき、僕も濱に行つてみたンだけど‥‥」
「さうお、私ずつと遠い處へ散歩に行つてゐたの‥‥」
 埼子は鏡の中の謙一にふふふと笑つてみせた。謙一は急に蹲踞んで、埼子の肩を抱き埼子の額に接吻をした。埼子は濡れ手拭を持つたまゝ、しばらく謙一の胸に凭れてゐたが、急に身を起して、
「厭よ! 厭だア、あつちへ行つてよ、謙兄さん大嫌ひだ、大嫌ひ!」
 と、鏡の中の謙一へ濡れ手拭を投げつけた。さうして立ちあがると、壁へ凭れて、
「新京でも、何處でもいらつしやい。どうして、勝手に一人でそんな處をきめてしまつたのよ。――新京なんて、そんな遠い處へ何故行かなくちやならないの? 新京なんかへ行くために、謙兄さんは大學へ行つてたのツ?」
 埼子は一氣にまくしたててゐる。謙一は默つてゐた。小柄で顏の小さい埼子が、まるで謙一には女學生のやうに見えた。二十一の女とはどうしても思へない。
「莫迦だなア、埼ちやんだつて、新京へ遊びに來てくれればいゝぢやないか、何も一生逢へないつて云ふンぢやないでせう?」
「だつてどうしてそんな遠い處へ職業を選んだりするのよ。――お姉さんが遠くへ行つちまつたからでせう? 私なんかのことなんか謙兄さんが考へてゐるなんて思はないわ。私は、とてもそれが癪にさはつてるのよ。‥‥」
 急にけたゝましく、机の上の時計の鈴が鳴りはじめた。埼子は、腹立たしさうに時計をつかんだ。謙一は埼子の狂人じみた樣子に吃驚して、ぢつと埼子を眺めてゐる。埼子は窓を開けると、鈴の鳴つてゐる時計を庭へ投げつけた。開けた窓から寒い風が吹きこんで、遠雷のやうな海鳴の音がきこえてくる。
 謙
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