く起き出て、表戸や裏口を開けはなち、うどんのだし[#「だし」に傍点]を煮る事でありました。朝早く船へ乗るひとや、船から降りるひとが、「うどん出来るかア」と云つて入つて来ますので、その客人を当てこんで早くから戸口を開けておくのです。昆布や、煮干を大きな木綿袋に入れ、五右衛門釜のやうな鉄釜にひたして、とろ火でいつときだしを取るのですが、その間、土間へ水を打つて、バンコ(腰掛)や台の上を拭いておくのが仕事なのでありました。台の上には、箸たてが置いてあるのですが、ここのお神さんは吝なので割箸は使はずに、洗つて何時までも使へる青竹色に塗つた箸をつかつてゐました。薬味のわけぎを小さく刻んで、山盛り皿に入れて出しておいて、戸口に椅子を持ち出し、だしの煮こぼれるまで、由は此椅子に呆んやりかけてゐるのです。椅子に腰をかけてゐますと、町が谷間のやうに卑屈なので、海辺でありながら、何時も暗い山の町の感じでした。両方から軒が低く重なりあつてゐるせゐか、眉に煤でもついてゐるやうなうつたうしさを感じるのです。由が、此様な町を見ながら、朝々椅子に呆んやりしてゐると、軒下を縫ふやうにして、ラムネを抜いてくれた娘が学校へ行きます。名前をひな子と云ひました。由の思つたとほりやつぱり置屋の娘でありましたが、このひな子にはもうひとつ名前があつて、それがあんまり変な名前なので、由は何時も気の毒に思つてゐました。その変な方の名前を、土方や俥夫たちが面白さうに呼んでも、ひな子は別に恥づかしがりもせずに、「なんなア?」と可愛い返事をするのです。
「ひなちやん、今日は裁縫があるんな?」
由は朝の挨拶に、ひな子の学課を訊くのが愉しみでありました。ひな子は、暫く由の椅子のところにしやがんで、「しんどいがア」と荷物を由のひざの上にどかりと置くのです。
「今日は理科でのウ。春の草花を習ふんぢやけど、およツしやん、すみれの花の数ウ沢山知つとるな?」
「角力取草の事かの? わしや知らんが‥‥」
「ふん、沢山あるんぞな、云はうかア、あのなう、ふもとすみれぢやんで、それから、こすみれ、しろばすみれ、けまるばすみれ、あふひすみれ、やぶすみれ、それから ひなすみれ、ひかげすみれ、まるばすみれ、ながばのすみれさいしん、えいざんすみれ、ひめすみれ、たちつぼすみれ、つぼすみれ、こみやますみれ、どうな、ほら、沢山あらウがの」
四ツ切りの黒ずんだ洋紙を赤い木綿糸でとぢた雑記帳を開いて、ひな子は、自分の描いたこれらのすみれの絵を見せるのでありましたが、どれもこれも兎の耳のやうで、[#「やうで、」は底本では「やうで」]満足なすみれの花は一ツも描いてありませんでした。
只、そのあやし気なすみれの絵に説明がつけてあるので、やつと、まるばすみれだとか、ひなすみれなぞと判るのでした。ひかげすみれなぞは、花の絵に線を引つぱつて、ここ白なり[#「ここ白なり」に傍点]と書いてあつて、――木かげの地に生じ、卵色の根より苗を生ずる特長ありて、無茎生で、その有柄葉は根生し、葉は楕円形でふちに鈍歯を有し、薄く毛があり、花は小さく少なく、色白く紫色の線あり――なぞと、判つたのか判らないのかむつかしい言葉で書いてありました。
「うちの先生、本にないのばア教へてむつかしいけエなう」
何時もの癖のやうに八ツ口からむき出しの両腕を出して、「おほけに」と由のひざの荷物を持つて立ち上ります。
「おい、おかめ、何よウしよる、学校おくれてしまふぞ」
床屋の男の子が同級生のくせにえらぶつて云ふのを、ひな子は、ニコニコ笑ひながら、「わしと並んで行きたいのぢやろウ」と、少女のなかにありやうもない嬌笑で云ひかへすのでした。おほかた、父親達が置屋へ行つて呼び馴れてゐるその名前を、自分達も何時とはなく覚えて呼びよくなるのでせう、町の男の子達は、ひな子のもうひとつの名を呼んで、「おかめおかめ」と云つてをりました。
3 由にとつて初めの一週間は、極めて長い厭なものに思はれましたが、段々島の風景が眼に浸みて来ますと、仕方がないと云つた落ちつきも出て来るのでありました。それに此島では、海にひたひたの山の根に添つた町なので、夜になると暑くもないのに、どの家の戸口にも人が出てゐて、向うどうしや、隣りどうしで声高く世間話をするのでありました。その世間話は、たいてい島の中の話なのでありましたが、由が、一番よく耳にとめたのは、何と云つてもおりくさんと云ふ男女子の話でした。おりくさんと云ふのは、島でも一流の置屋の主人で、女のくせに髪を男のやうに短く刈り上げ、筒袖の意気な着物に角帯を締めて、その帯には煙草入れなぞぶらさげ、二三人の若い女を連れては、角力取りのやうにのつしのつしと歩いてゐる女のひとでした。男にしてみても仲々立派なもので、「景気はどうの?」と云つて人に挨拶
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