をしてゐる後姿は、軒から首だけ上に出てゐるやうに、由には大きなひとに見えました。ひな子は此おりくさんの養女の一人でしたが、「うちのお父さんは暢気ぢやア」と、おりくさんの事を「お父さん」と呼んでゐるやうなのです。由は此おりくさんのうちへ、出前でよくうどんを持つて行くのでしたが、おりくさんがゐると、きまつて一銭銅貨を煙草入れの叺から出して投げてくれるのでありました。
 おりくさんについての町の世間話はもうまるで伝説みたいな存在になつてゐるのでせう、太ツ腹で、妾を二三人も持つて、それが皆仲良く助けあつて、一ツの大きな料理屋を営んでゐるのですから、小さい島の上では珍らしい事以上に、かへつて誇ででもある風にみんな話をしてをるのでした。
「荒神山へおりくさんが噴水をつくるちふがの」
「ほう、さうかの、いづれ公園にでもするんぢやろな」
「女子でもやりて[#「やりて」に傍点]よのウ‥‥」
 そのおりくさんが或日、由[#「由」は底本では「山」]の奉公してゐるうどんやへのつそり入つて来て、色々な世間話の末、「一寸よツしやんを貸してくれんかの、今日は大阪から弁護士が二三人来るで、女子が足りんでのウ」と、由の顔をチラと見るのでした。
 夕方、由はひな子に連れられて、町に一軒しかない銭湯から帰つて来ると、銀の丈長を巻いて髪結のすきてから桃割れに結つて貰ひました。
「ほんによう似合ふぞな」
「女子よのウ‥‥」
 由は鏡の中の変つた自分の姿を見ても別に愕いた風でもなく、髪が出来上ると、部屋の隅へ行つて固くなつてかしこまつてゐるのでした。手伝ひに来る女達は、由を見て、「どこの妓か思やアうどんやのあねさんか、ええのウ」とあいそを云つてくれるのでありました。それでも沈黙つてゐると、ひな子が由の肩を叩いて「少し笑ふもんぢやろで」と云ふのです。
 由は、学校へ行つてゐる時のひな子を好きだと思ひました。夜、かうしたところで見るひな子は一瞥しただけの男へも、愛嬌をみせて、「好がんがのウ」と口癖に云ひ、屡々牝猫のやうな眼をしてみせるのでありました。
「よツしやん、料理場から徳利ヨ持つて来てな」
 由は徳利の熱いのを持つて、ひな子の後へ続きますと、ひな子は振り返つて、「わしたちの先生も来とるん、手を握つて、放さんのんよ」と眉を顰めて見せるのでした。
 広い座席には、もう酔ひのまはつた二三人の代議士とか云ふ男達が正座で築港の問題について声高く論じあつてをりました。末席には、詰衿を着て、首のところへだけネクタイのやうに黒いマフラを巻いたひな子の先生が、蜜柑をうまさうに食べてをりました。
 座席の真中では手踊りが始まり、歌も勝手な奴が流れてきこえましたが、只さうざうしいだけで、由は呆んやりつつたつてみてをりました。
「先生は蜜柑ばア食べようて、なう、酒飲まんの?」
「酒は飲めんのんよ」
 ひな子の若い先生はわざとひな子の肩を抱いて、「可愛い子ぢやのウ」と云ふのでした。ひな子は二十四五の女のやうに老けた笑ひをしながら、姉芸者たちの真似ででもありませう、「好かんがア」と云つて、先生のひざを厭と云ふほどつねつて、由の方へ走つて逃げて来るのでありました。[#底本は次行の空きなし]

 4 由は二週間も過ぎると、妙に空漠なものが、心におそつて来て、まだ少女のくせに、夜中眠られないで困つてしまひました。うどんやの家族は四十歳になるお神さんが主人で、お神さんの両親と、お神さんの弟が一人ゐましたが、此家族は怒ることも泣くことも亦笑ふこともどつかへ忘れてでも来たやうな人達で、由が来ても、昔から由はゐたのだよと云つた風なかまへかたで、落度があつても、怒るでもなければ、言つてきかせるでもないのです。
 お神さんは家中の鍵を持つてをりました。神さんの弟は一日うどんの玉を島中へ自転車で卸しに出掛けますし、老人達は、うどんを延したり、町の共同井戸から水を汲みこんだりして、まつたく、此家族の一日は時計よりも狂つた事がありません。由はまだ子供らしさが抜けきらないのでせうか、かへつて、ガミガミ叱られた方がいいなぞと思つたりしました。初めの頃はそれでも奉公したのだからと思ひ、朝起きると煮干と昆布のはひつた煮出し袋を釜に入れ、火を焚きつけ、煤けたバンコや台の上や、棚なぞ拭くのでありましたが、日がたつにしたがつて、方作のつかないやうな錘が体中の力を鈍くしてしまふのでありました。
 何時も昼過ぎになると、海辺の空地へだしがらを筵へ乾しに行くのですが、由にとつて、これは一寸愉しい時間でありました。病院の窓からは背の低い看護婦達が顔を出して港を見ながら「吾主エス、吾を愛す」なぞと讃美歌をうたつてゐます。由は、やたらに白いものが清らかなものに思へ、自分も勉強してあのやうな歌をうたへるやうな女になりたいと何時も思ふのでありました
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