小さい花
林芙美子

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【テキスト中に現れる記号について】

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 1 ずゐぶん遠いむかしの話だけれど、由はうどんやの女中をした事がありました。短いあひだではありましたが、はじめての奉公なので、これがお前の寝るところだと云はれた暗い納戸のやうな部屋へ這入りますと、いつぺんに涙が噴きあげて体がちつとも動かないのです。
 そのうどんやは尾道と云ふ港町から船に乗つて小一時間位ありました。みんな「いんのしま」と云つてをりましたので、由は「犬の島」とでも書くのかと思つてをりましたところ、買つて貰つた切符には「因ノ島」と書いてありました。由は此島で短いながら淋しい三週間を過しました。
 バスケツトや行李のやうな高価なものは買つて貰へなかつたので、由の持ちものと云へば、襯衣の空箱に一二枚の着替へのものと、白いハガキが四五枚、それに馬琴の弓張月と云ふ、青く古ぼけた本とそれきりで、うどん粉の匂ひのする化粧水のやうなものも一本持つてゐたやうです。幼いうちにはしかを病んで顔にそばかすがありましたので、由の母親は「海辺に行くとお前のそばかすは濃くなる故これでも塗つたらええぞな」と云つて、何時買つたとも判らぬ、うどん粉の匂ひのするその化粧水をくれたのですが、此化粧水は島にをるあひだぢう塗つた事はありませんでした。陽のかつと当る昼間なぞ、そばかすが眼だつて見えましたが、皮膚が白いのでかへつてあいけうがあつて、ちつとも苦にしたり愧づかしいとも思つたりなぞしませんでした。――初めに島へあがりましても、そのうどんやまで行きますのに仲々気おくれがして、由はいつとき波止場で船を見て遊びました。もう秋も末の事で、海が空と同じやうにひつそりと光つてゐて、船着場のすぐ上の小高いところに白い病院がありました。窓と云ふ窓がみんな海の方へむいてゐましたので、その窓の硝子が眼鏡をかけた人のやうにキラキラ光つて大変ハイカラに見えました。病院の石の段々の下には、酢いさうな初なりの蜜柑を売つてゐる露店がありました。その露店の中にはラムネの壜が沢山並べてあつて、由とおなじ年恰好の娘が、垢で真黒になつた木の栓抜きでラムネのくちをその栓でいつしんに押してゐました。
「ありやア、ちつとも抜けんがア、どうしたんな、をばさん?」
「べつのオやつてみんしや」
 八ツ口からふくふくした腕を出してゐたのを、その女の子は腕をまた袖口へもどして、今度は袂を持ち添へて栓抜きの上から押すのです。下唇に黒子があつて眉の濃い娘でした。その娘は銀色の丈長と云ふのを掛けて、ひつつめの桃割れに結つてをりましたが、此島の置屋(芸者屋)の娘ででもあるのでせう、仲々はきはきとしたものごしで、何がをかしいのか、ラムネの栓を抜いてもくちにむせてばかりゐて、はかばかしくラムネの水が減つてゆきませんでした。もう、ぽつぽつとおぼろげながら、心の日蔭を持つやうになつてゐても、カラカラとラムネの玉の鳴るのをきいてをりますと、まるで子供のやうに由も飲みたくて仕方がないのです。ですが、奉公にやらされる位でありましたので切符を買つて貰つて、穴のあかない五銭白銅をもらつたのがせいぜいで、此五銭白銅は、どんな場合があるかも知れぬ故大切に持つてゐるのだと、母親にくれぐれも云はれても云はれてゐた金なのでありました。
「そのラムネ、なんぼうな?」
「三銭よウ」
 娘が白い歯をニッとみせて云ひました。由はそれでミカン水の方にでもしようと手を差し出しますと、娘は早もうラムネの壜を取つて、「わしに抜かしてつかアさい」と、又袂を持ちそへて、垢のついた木の栓抜きを面白さうにラムネのくちへ当てるのでした。
「ミカン水はなんぼう?」
「ありア一銭よウ、ラムネにせんのんかな、わしに抜かしなしやアよ」
 由は娘の云ふとほりラムネを飲むことにしました。抜いてもらつて、早く娘と同じやうにカラカラと壜の中で玉を転がしながら飲みたいと思つたので、「ラムネぢやア」と云ひますと、その声といつしよに娘は壜のくちに力を押して、ポオッスンと抜きました。
 二人は露店のみせさきで、ラムネの玉をカラカラと云はせて飲みました。
「ラムネの玉ア抜くの好きぢや」
 その娘は、まだほかにラムネを飲みに来る者はないだらうかと、キョロキョロ四囲を見まはして、土方が通つても、「あんたラムネでも飲んで行きなさらんの」と、まるで大人の女のやうな言ひぶりと、姿で笑ひかけるのです。「今度、誰かラムネ飲まんかいのウ。玉ア抜くの面白いがの‥‥」――二人は、それから色々の話を始めるやうになりましたが、行きしぶくつてゐる由をうどんやへ連れて行つてくれたのも此ラムネを抜いてくれた娘でありました。

 2 由の仕事は、家中の誰よりも早
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