君がほしくて仕方がなかつたンだらう‥‥。君はこの気持をわらふだらうが、これが人間の心と云ふものさ‥‥寿司に醤油をつけてくれたのが、僕はとてもうれしかつた。醤油の匂ひが涙の出るほどなつかしかつた‥‥」
 信一は話してしまふと吻としたやうに、砂をつかんでゐた手から、湿つて熱くなつた砂を膝の上へこぼしてゐる。
 絹子は海の上へいつぱい黒い烏が舞ひおりてゐるやうな錯覚にとらはれてゐた。私の良人にはかつて妻があり子供がある‥‥。信一の家へ着いた晩に、信一と兄が何かひそひそ話しあつてゐたことがあつたけれども‥‥絹子は、自分の前途が薄暗くなつたやうな気がしないでもない。
 絹子は暫く海の向ふをみつめてゐた。
 子供と二人で二階住ひをして、人蔘やほうれん草で赤ん坊をそだててゐたと云ふ信一の佗しい生活の暗さは、現在眼の前にゐる信一には少しもうかがへなかつた。
「ねえ‥‥」
「うん‥‥」
 うんと応へてくれた信一の言葉の中にはにじみ出るやうな温かいものがある。絹子はどうすればいいのか判らなかつた。十六の年から奉公をしてゐて、大家の奥ふかい処に勤めてゐたせゐか、絹子は自分が一足飛びに不幸な渕へ立つたやうな気
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