へ行つてゐたはずの妻がひよつこり病院へ尋ねて来た。信一は腹立ちで口もきけなかつた。信一が黙つてゐるので、妻は最後に子供のゐる処を教へてくれと云つた。信一は妻に対してはもう何の気持もなかつたけれども、子供の事を云はれると妙に腹が立つて来て仕方がなかつた。

     五

「仏門の言葉に、煩悩は無尽なり、誓つて之を断たんことを願ふと云ふ言葉があるが、僕はいま、この子供の事だけはどうしても煩悩を断ちがたいのだ‥‥これをしつかりと絹子さんに話して、よかつたら来て貰つて下さいと、僕はくれぐれも吉尾さんへ云つておいたンだ‥‥世間の人は、傷ついて戻つて来た表面の僕だけに同情をしてくれて、何も彼も本当のものを隠して一時をとりつくろつてくれるンだけれど、――僕は、そんな事は将来に到つて、お互の不幸だと思ふ‥‥。と云つて、君と結婚してしまつていまさら、こんな事でどうにもならないけれど‥‥それにしても、結婚のはじめに、僕は本当は、君にこの話を、僕の口からもう一度しておかうと思つた。吉尾さんが、ひよいとしたら、君に云はないかも知れないとは思はないでもなかつたンだけど‥‥でも、僕も何だか弱い気持になつてゐて、君がほしくて仕方がなかつたンだらう‥‥。君はこの気持をわらふだらうが、これが人間の心と云ふものさ‥‥寿司に醤油をつけてくれたのが、僕はとてもうれしかつた。醤油の匂ひが涙の出るほどなつかしかつた‥‥」
 信一は話してしまふと吻としたやうに、砂をつかんでゐた手から、湿つて熱くなつた砂を膝の上へこぼしてゐる。
 絹子は海の上へいつぱい黒い烏が舞ひおりてゐるやうな錯覚にとらはれてゐた。私の良人にはかつて妻があり子供がある‥‥。信一の家へ着いた晩に、信一と兄が何かひそひそ話しあつてゐたことがあつたけれども‥‥絹子は、自分の前途が薄暗くなつたやうな気がしないでもない。
 絹子は暫く海の向ふをみつめてゐた。
 子供と二人で二階住ひをして、人蔘やほうれん草で赤ん坊をそだててゐたと云ふ信一の佗しい生活の暗さは、現在眼の前にゐる信一には少しもうかがへなかつた。
「ねえ‥‥」
「うん‥‥」
 うんと応へてくれた信一の言葉の中にはにじみ出るやうな温かいものがある。絹子はどうすればいいのか判らなかつた。十六の年から奉公をしてゐて、大家の奥ふかい処に勤めてゐたせゐか、絹子は自分が一足飛びに不幸な渕へ立つたやうな気がしないでもないのである。
「赤ちやんはいくつなの?」
「もう四ツだ。歌をうたふよ」
「逢ひたいでせう?」
「うん‥‥」
「奥さまはこつちなンでせう?」
「さア、何処にゐるンだか知らないねえ‥‥そんなものはどうでもいいさ‥‥」
「だつて‥‥」
「君は、僕と結婚した事を後悔してるンぢやないだらうね‥‥」
「‥‥」
 絹子はそつとハンカチをといて、また煙草とマツチを出した。「光」の箱からチヨークのやうな煙草を一本出して信一の唇に咥へさしてやると、信一は急に熱い手で絹子の指をつかんで、人差指だの、中指、薬指、小指と順々に絹子の爪を自分の歯で噛んでいつた。
 絹子は溢れるやうな涙で、咽喉がぐうつと押されさうだつた。

     六

 二人が御前崎から名古屋へ帰つて来たのは一週間ぶりである。
 暮れ近い街の姿は戦時といへども流石に忙しさうな気配をみせてゐた。
 二人の新居は四軒長屋の一番はじの家で、まだ建つたばかりなので木の香が四囲にただようてゐた。芯の柔らかい畳だつたけれども、それでも畳がぎゆうぎゆうと鳴つた。
 二人はまるで長い間連れ添つた夫婦のやうに、何も彼も打ちとけあつてゐる。
 信一は昔の陶器会社へ勤めをもつやうになつた。そして会社では薄呆んやりした片眼の視力をたよりに毎日ろくろを廻して働いてゐた。
 絹子が結婚をした知らせを二宮へ知らせてやると、東京のお嬢さんから美しい小さい鏡台が贈りとどけられた。さうして添へられた手紙の中には、絹さんのやうな幸福なひとはないと思ふ、自分は結婚して始めて、実家にゐた時の何十倍と云ふ苦労をしてゐます。もう、再び娘にもどる事は出来ないけれども、あの時がなつかしいと思ひますと云ふ事が書いてあつた。美しいお嬢さんではあつたけれども、結婚した相手のひとは、仲々の道楽家で、お嬢さんもやつれてしまはれたと店のひとが絹子に話してゐた。
 二階が六畳一間に、階下が六畳に四畳半に三畳。それに小さい風呂場もついてゐたし、狭いながらも小菊の咲いてゐる庭もある。
 千種町の駅も近かつたし、この辺は割合物価も安かつた。
 絹子は自分一人で信一の子供に逢ひに行つてみようと思つた。信一が何も云はないだけに信一の淋しさが自分の胸に響いて来たし、御前崎の砂浜でのことがはつきりと胸に浮んで来るのである。
 子供は大曾根と云ふところの雑貨屋にあづけてあつた。
 絹子が
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