何だらうと思つた。
 信一も、絹子に袖を握られたまま素直にもとの藁小屋の方へ戻つて来てくれた。

     四

 信一は二十二の時に名古屋へ出て、陶器会社の事務員に勤めてゐたのだ。輸出向きの陶器を製造する処で、非常に忙しい会社だつたが、信一は一年ばかりもすると少しばかりの貯金も出来たので、郷里から妻を貰つた。小柄なおしやべりな女だつたが、子供が生れると間もなく、この妻は子供を置いて信一の友達と満洲へ逃げて行つてしまつたのだ。
 信一は妻に去られて、子供をかかへて困つてしまつた。朝起きるとすぐ子供の世話をして近所へあづけて会社へ通はなければならない。夕方はあづけさきから子供を受取つて帰る、この日課が一年近くも続いたであらう。信一は子供が可愛くて仕方がなかつた。牛乳だけで、そだてる子供の肉体は、いつたいに弱いのが多いと云ふ新聞記事を見ると、信一は、人蔘やほうれん草をうでて、それをうらごしで漉しては牛乳と混ぜて飲ましてみた。時には乱暴にも、煮干をすり鉢ですつて、牛乳に混ぜて飲ましたりする事もある。だけど子供は不思議にぐんぐん大きくなり、近所のひとからは村井さんのとこの優良児さんと云ふやうなあだ名がついたりしてきた。
 むつき[#「むつき」に傍点]の世話から、着物のつくろひまで信一は一人でしなければならなかつた。幸福なことには一度も医者いらずな子供で、ちよつと腹工合を悪くしても、信一が帰つて診てやればすぐ子供の病気はよくなるのである。
 出征する時分には子供はもうはやはふ[#「はふ」に傍点]やうになつてゐたけれど、今度だけは近所へあづけてゆくわけにもゆかないので、信一は子供を里子に出すことにして出征したのであつた。
 里子に出してしまへば、或ひはもうこのまま子供とは生き別れになるかも知れないと信一は思つてゐた。ひよいとして、自分は生命ながらへて戻つて来るとしても、子供は生きてはゐないだらうと思はれるのであつた。牛乳や、重湯でそだてることさへも大変な手数であるところへ、信一の子供は世間いつぱんの育児法と違つて、人蔘や、ほうれん草や、りんごの絞り汁を食べさせなければならない。信一は貯金を全部おろしてそれを子供へつけてやつた。御前崎の田舎へあづける工夫も考へないではなかつたけれども、兄は四人も子供を持つてゐたので信一はかへつて他人の家へ里子に出す事にしたのである。

 三年目に戦争から戻つて来ても、子供は丈夫にそだつてゐた。信一が逢ひに行つても、子供は信一の黒い眼鏡を恐がつて仲々なついては来ないのである。――里子の家でも、信一の子供を自分の子供のやうに可愛がつてゐてくれたせゐか、子供をかへしてくれと云はれるのが辛いと云つてお神さんが泣いて信一にうつたへるのであつた。
 信一は絹子と結婚してからも子供の事が忘れられなかつた。忘れようと思へば思ふほど、子供とたつた二人で辛い生活をしたかつての日の事を思ひ出すのである。去つた妻の事は少しも思ひ出さないのに、別れた子供の事だけは、夢のなかでも涙をこぼすくらゐに恋しくてならなかつた。
 人蔘を買つて来て、夜おそくそれをうでながら、子供と二人で遊んだ。子供は少しも泣かない丈夫さで、畳に放つておいてももぐもぐと唇をうごかして一人で寝転んだまま遊んでゐてくれた。
 うでた人蔘をすり鉢ですつて、牛乳でどろどろにのばして、その瓶を赤ん坊のそばへ持つて行つてやると、赤ん坊は可愛い足をばたばたさせてよろこんだものだ。
 信一は、きやつきやつと一人で笑つてゐる赤ん坊のそばで少しばかり酒をのむのが無上の愉しみであつた。うでのこりの人蔘に醤油をつけて酒の肴にしたりした。
 戦場へ出てゐても、信一は子供の写真を見ると、嗚咽[#「嗚咽」は底本では「鳴咽」]が出るほど哀しく切なかつた。女々しいほど子供に逢ひたくて仕方がなかつたのだ。黄梅の激しい戦ひの時であつた、信一は小学校の窓からそつと敵の状勢を眺めてゐた。立つてゐてはいまにあぶないよ。お父さんあぶないですよツと、さかんに、空中で赤ン坊の柔らかい手が自分の方へ泳いで来るやうに見えた。戦争最中には赤ん坊の事なぞは忘れてしまつてゐるはずだのに、さかんに赤ん坊の姿が激しく弾の飛んで来る空中に浮んでゐる。
 信一はどんどん撃つた。
 子供の手なぞは払ひのけながら、窓へ顔を出してどんどん撃つたが、急に頭の上へ何かどかんと落ちかかる音がしたかと思ふと、信一は顔面を熱い刀で切られたやうな感じがした。
 暗い穴のなかへ体がめり込むやうだつた。
 赤ん坊の泣き声が烈しく耳についてゐるやうであつたが、そのまま信一は気が遠くなつてしまつてゐたのだ。
 子供の柔らかい声が渦のやうに地の底から響いてくる。その音に誘はれるやうに信一はぐんぐん地の底へ落ちこんで行つた。
 内地の病院へ戻つて来ると、満洲
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