一人で大曾根まで子供に逢ひに行つてみたいと云ふと、信一も一緒に行かうと云ひ出して、二人は暮れの迫つた或る日曜日に、電車へ乗つて大曾根町へ行つた。電車の中は割合空いてゐた。絹子と信一の腰をかけてゐる前には、三人の子供を連れた夫婦が腰をかけてゐた。一番上の子は中学生らしく、胸に金釦のいつぱいついた外套を着てゐる。中は小学校六年生ぐらゐ、下は二年生ぐらゐででもあらうか、三人の男の子達は、父と母の間に腰をかけて熱田神宮へお参りをした話をしてゐた。父親は四十五六歳ぐらゐの年配で、肩から写真機をぶらさげたまま腕組みをして眠りこけてゐた。母親はよく肥えた柄の大きい婦人で、股を開いたやうにして窓へそり身になつて凭れてゐる。小さい子供が、吊革へぶらさがつたりするのを、時々たしなめては叱つてゐたが、子供達は時々母親の首へ手をかけては何か向ふへ着いてからのことをねだつてゐる風である。見てゐて、ほほゑましくなる風景であつた。絹子は、背中に汗がにじむやうな、くすぐつたいものを感じた。自分達の将来も、あの人達のやうに幸福にうまくゆくかしらと考へるのである。
 信一は、窓外の方へ顔をむけてうつらうつらしてゐた。
 絹子は前の親子を眺めてゐるのは愉しかつた。
 眠つてゐた良人は、眼をつぶつたままの姿で、ぽけつとから鼻紙を出すと、大きい音をさせて鼻をかんだ。鼻をかんでからも、丁寧に鼻を拭いて、その鼻紙を眼をつぶつたまま自分の膝のところへ持つてゆくと、横あひから肥えた妻君が逞しい腕を子供の膝ごしににゆつと突き出してその鼻紙を取つて自分の袂へ入れてしまつた。
 絹子はまるで、自分がした事を人に見られてでもゐるかのやうに赧くなりながら微笑してゐた。御主人は、鼻紙を妻君に渡してしまふと、また、手を膝の上へだらりとさげてよく眠つてゐる。子供達は走つてゆく窓外を眺めながら、きやつきやつとふざけあつてゐた。太つた妻君は股を開いたままの姿勢で、如何にも、三人の子供の母らしい貫禄をみせて悠々としてゐた。
 絹子はふつと、信一の方へ首を向けた。明るい世間へ出ると、何かに卑下してしまつてゐる、そんな淋し気な信一の姿を見ると、絹子は、自分の眼の前にゐる奥さんのやうに、雄々しく信一をかばつて、これからも末長く生活してゆかなければならないと思ふのであつた。この信一を捨てていつてしまつた女のひとへ激しく報いる為にも‥‥。
 絹子は自分もやがて幾人かの子供を産んで、あの女の人のやうに股を拡げて腰をかける日のことを考へるとほほ笑ましい気持であつた。その姿が少しもいやらしくは見えなかつたしかへつて三人の母として頼もしさへ見えた。絹子は自分もそつと下駄を離してそり身になつてみたけれども、若い絹子にはそれは何だか妙なものである。絹子は、無性にをかしくなつて来て、肩で信一の体を二三度強く押しつけた。何も知らない信一は窓外の方を向いたまま唇辺でくすくす笑つてゐるやうであつた。



底本:「林芙美子全集 第十五巻」文泉堂出版
   1977(昭和52)年4月20日発行
入力:林 幸雄
校正:花田泰治郎
2005年6月27日作成
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