へ行つてゐたはずの妻がひよつこり病院へ尋ねて来た。信一は腹立ちで口もきけなかつた。信一が黙つてゐるので、妻は最後に子供のゐる処を教へてくれと云つた。信一は妻に対してはもう何の気持もなかつたけれども、子供の事を云はれると妙に腹が立つて来て仕方がなかつた。

     五

「仏門の言葉に、煩悩は無尽なり、誓つて之を断たんことを願ふと云ふ言葉があるが、僕はいま、この子供の事だけはどうしても煩悩を断ちがたいのだ‥‥これをしつかりと絹子さんに話して、よかつたら来て貰つて下さいと、僕はくれぐれも吉尾さんへ云つておいたンだ‥‥世間の人は、傷ついて戻つて来た表面の僕だけに同情をしてくれて、何も彼も本当のものを隠して一時をとりつくろつてくれるンだけれど、――僕は、そんな事は将来に到つて、お互の不幸だと思ふ‥‥。と云つて、君と結婚してしまつていまさら、こんな事でどうにもならないけれど‥‥それにしても、結婚のはじめに、僕は本当は、君にこの話を、僕の口からもう一度しておかうと思つた。吉尾さんが、ひよいとしたら、君に云はないかも知れないとは思はないでもなかつたンだけど‥‥でも、僕も何だか弱い気持になつてゐて、君がほしくて仕方がなかつたンだらう‥‥。君はこの気持をわらふだらうが、これが人間の心と云ふものさ‥‥寿司に醤油をつけてくれたのが、僕はとてもうれしかつた。醤油の匂ひが涙の出るほどなつかしかつた‥‥」
 信一は話してしまふと吻としたやうに、砂をつかんでゐた手から、湿つて熱くなつた砂を膝の上へこぼしてゐる。
 絹子は海の上へいつぱい黒い烏が舞ひおりてゐるやうな錯覚にとらはれてゐた。私の良人にはかつて妻があり子供がある‥‥。信一の家へ着いた晩に、信一と兄が何かひそひそ話しあつてゐたことがあつたけれども‥‥絹子は、自分の前途が薄暗くなつたやうな気がしないでもない。
 絹子は暫く海の向ふをみつめてゐた。
 子供と二人で二階住ひをして、人蔘やほうれん草で赤ん坊をそだててゐたと云ふ信一の佗しい生活の暗さは、現在眼の前にゐる信一には少しもうかがへなかつた。
「ねえ‥‥」
「うん‥‥」
 うんと応へてくれた信一の言葉の中にはにじみ出るやうな温かいものがある。絹子はどうすればいいのか判らなかつた。十六の年から奉公をしてゐて、大家の奥ふかい処に勤めてゐたせゐか、絹子は自分が一足飛びに不幸な渕へ立つたやうな気
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