がしないでもないのである。
「赤ちやんはいくつなの?」
「もう四ツだ。歌をうたふよ」
「逢ひたいでせう?」
「うん‥‥」
「奥さまはこつちなンでせう?」
「さア、何処にゐるンだか知らないねえ‥‥そんなものはどうでもいいさ‥‥」
「だつて‥‥」
「君は、僕と結婚した事を後悔してるンぢやないだらうね‥‥」
「‥‥」
絹子はそつとハンカチをといて、また煙草とマツチを出した。「光」の箱からチヨークのやうな煙草を一本出して信一の唇に咥へさしてやると、信一は急に熱い手で絹子の指をつかんで、人差指だの、中指、薬指、小指と順々に絹子の爪を自分の歯で噛んでいつた。
絹子は溢れるやうな涙で、咽喉がぐうつと押されさうだつた。
六
二人が御前崎から名古屋へ帰つて来たのは一週間ぶりである。
暮れ近い街の姿は戦時といへども流石に忙しさうな気配をみせてゐた。
二人の新居は四軒長屋の一番はじの家で、まだ建つたばかりなので木の香が四囲にただようてゐた。芯の柔らかい畳だつたけれども、それでも畳がぎゆうぎゆうと鳴つた。
二人はまるで長い間連れ添つた夫婦のやうに、何も彼も打ちとけあつてゐる。
信一は昔の陶器会社へ勤めをもつやうになつた。そして会社では薄呆んやりした片眼の視力をたよりに毎日ろくろを廻して働いてゐた。
絹子が結婚をした知らせを二宮へ知らせてやると、東京のお嬢さんから美しい小さい鏡台が贈りとどけられた。さうして添へられた手紙の中には、絹さんのやうな幸福なひとはないと思ふ、自分は結婚して始めて、実家にゐた時の何十倍と云ふ苦労をしてゐます。もう、再び娘にもどる事は出来ないけれども、あの時がなつかしいと思ひますと云ふ事が書いてあつた。美しいお嬢さんではあつたけれども、結婚した相手のひとは、仲々の道楽家で、お嬢さんもやつれてしまはれたと店のひとが絹子に話してゐた。
二階が六畳一間に、階下が六畳に四畳半に三畳。それに小さい風呂場もついてゐたし、狭いながらも小菊の咲いてゐる庭もある。
千種町の駅も近かつたし、この辺は割合物価も安かつた。
絹子は自分一人で信一の子供に逢ひに行つてみようと思つた。信一が何も云はないだけに信一の淋しさが自分の胸に響いて来たし、御前崎の砂浜でのことがはつきりと胸に浮んで来るのである。
子供は大曾根と云ふところの雑貨屋にあづけてあつた。
絹子が
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