戦争から戻つて来ても、子供は丈夫にそだつてゐた。信一が逢ひに行つても、子供は信一の黒い眼鏡を恐がつて仲々なついては来ないのである。――里子の家でも、信一の子供を自分の子供のやうに可愛がつてゐてくれたせゐか、子供をかへしてくれと云はれるのが辛いと云つてお神さんが泣いて信一にうつたへるのであつた。
信一は絹子と結婚してからも子供の事が忘れられなかつた。忘れようと思へば思ふほど、子供とたつた二人で辛い生活をしたかつての日の事を思ひ出すのである。去つた妻の事は少しも思ひ出さないのに、別れた子供の事だけは、夢のなかでも涙をこぼすくらゐに恋しくてならなかつた。
人蔘を買つて来て、夜おそくそれをうでながら、子供と二人で遊んだ。子供は少しも泣かない丈夫さで、畳に放つておいてももぐもぐと唇をうごかして一人で寝転んだまま遊んでゐてくれた。
うでた人蔘をすり鉢ですつて、牛乳でどろどろにのばして、その瓶を赤ん坊のそばへ持つて行つてやると、赤ん坊は可愛い足をばたばたさせてよろこんだものだ。
信一は、きやつきやつと一人で笑つてゐる赤ん坊のそばで少しばかり酒をのむのが無上の愉しみであつた。うでのこりの人蔘に醤油をつけて酒の肴にしたりした。
戦場へ出てゐても、信一は子供の写真を見ると、嗚咽[#「嗚咽」は底本では「鳴咽」]が出るほど哀しく切なかつた。女々しいほど子供に逢ひたくて仕方がなかつたのだ。黄梅の激しい戦ひの時であつた、信一は小学校の窓からそつと敵の状勢を眺めてゐた。立つてゐてはいまにあぶないよ。お父さんあぶないですよツと、さかんに、空中で赤ン坊の柔らかい手が自分の方へ泳いで来るやうに見えた。戦争最中には赤ん坊の事なぞは忘れてしまつてゐるはずだのに、さかんに赤ん坊の姿が激しく弾の飛んで来る空中に浮んでゐる。
信一はどんどん撃つた。
子供の手なぞは払ひのけながら、窓へ顔を出してどんどん撃つたが、急に頭の上へ何かどかんと落ちかかる音がしたかと思ふと、信一は顔面を熱い刀で切られたやうな感じがした。
暗い穴のなかへ体がめり込むやうだつた。
赤ん坊の泣き声が烈しく耳についてゐるやうであつたが、そのまま信一は気が遠くなつてしまつてゐたのだ。
子供の柔らかい声が渦のやうに地の底から響いてくる。その音に誘はれるやうに信一はぐんぐん地の底へ落ちこんで行つた。
内地の病院へ戻つて来ると、満洲
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