の名刺を澤山持つて歩くことにしてゐた。自動車にはねられても、道に迷つても名刺を出しさへすれば人がちやんと案内をしてくれると思つたからである。つゆはどこへ行つても娘の話をした。炙點師の處へ案内してくれるおばあさんにもつゆは甲斐子の名刺を一枚出して、娘は小説を書いてゐますぞなと云ふのである。おばあさんは小説と云ふものを知らないので、たゞ、大きい名刺を貰つて、浪花節語りでもあるのかと思つてゐる樣子である。つゆは腹が空いたので握り飯をたべたかつた。隨分歩いて腰が冷えこんだのか、下腹が痛くてしくしくうづきはじめてゐた。何處かで熱い茶がほしいと思つたので、つゆはおばあさんをさそつて小さいミルクホールへ這入つた。つゆは貧し氣なおばあさんを、妹のやうにふびんに思つたのだ。何かおいしいものを食べさせてやりたいと思つた。「何でも云ひませんか、何でも食べませうや」と云ふと、そのおばあさんは雜煮を食べたいと云つた。つゆは汚れた白いまへだれをしてゐる男に、雜煮を二杯註文して、やがて運ばれて來た雜煮の中の、紅いのの字の模樣のついたかまぼこをおかづにして握り飯をひろげた。つゆは愉しくて仕方がなかつた。自分もこのおば
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